見出し画像

音楽史年表記事編48.ピアノ協奏曲創作史

 イタリアのトレッリは1709年にバイオリンのための12の協奏曲を出版しますが、これが協奏曲固有の3楽章形式の成立とされています。さらに、ヴェネツィアのヴィヴァルディはバイオリンやリュート、フルート、リコーダー、ヴィオラ・ダモーレ、ファゴット、オルガンなどの多くの協奏曲を作曲します。
 ピアノの前身のチェンバロによる協奏曲は1721年にバッハがブランデンブルク辺境伯に献呈したブランデンブルク協奏曲第5番であるとされます。バッハの平均律や主題労作、対位法などは前期古典派のエマヌエル・バッハや古典派のハイドンに受け継がれて行きます。一方、ヘンデルもオルガン協奏曲を残していますが、ヘンデルは歌劇やオラトリオ演奏のために舞台に設置された足鍵盤のない小型のオルガンで、幕間に余興のようにオルガン協奏曲を演奏し人気を得ていました。
 バッハのクラヴィーア曲は鍵盤楽器のための曲であって、チェンバロやフォルテ・ピアノ(いわゆる打鍵するクラヴィーア)など対象として、楽器を指定しているわけではなく作曲されますが、古典派期にはピアノの前身であるクラヴィーアが著しく改良されます。そして、モーツァルトの時代になるとチェンバロに代わってクラヴィーアが一般に演奏されるようになったようです。モーツァルトは生涯に20曲以上のクラヴィーア協奏曲を作曲していますが、バロック以来の旋律と伴奏という様式を抜け出し、ピアノ、各弦楽器、各木管楽器が互いにアンサンブルを行うというポリフォニーへの回帰ともいうべき改革をクラヴィーア協奏曲で実現しました。
 さらに、ベートーヴェンの時代にはクラヴィーアは現代のピアノと呼べるほどに音域も音量も拡大し、ベートーヴェンはこれらの最新のピアノを用いて、劇的なピアノ・ソナタやピアノ協奏曲を作曲しています。
 ロマン派の時代には、作曲家は従来の宮廷報酬、作曲料、出版料、レッスン料等の収入の他に、それまで興行主が独占していた興行料を得るようになり、経済的に余裕が生まれ、多作でなくても安定した生活が保障されるようになった影響からか、多様な作曲家が生まれます。ポーランドのショパンの他、北欧のグリーグ、ロシアのチャイコフスキーなどが民族色豊かな協奏曲を作曲するようになりました。ロマン派後期から現代にかけては、ラフマニノフやショスタコーヴィッチが超絶技巧の演奏テクニックを必要とする難曲を作曲します。

【音楽史年表より】
1721年3/24、J・S・バッハ(36)、ブランデンブルク協奏曲BWV1046~1051
ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒに献呈する。バッハが辺境伯に送り届けた自筆の総譜にはつぎのような仏語の献呈文が添えられている。辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の叔父にあたる人で、当時はベルリンのプロイセン王宮に居を構え、小規模ながら自分自身の楽団を持っていた。バッハは伯のために特別作曲したのではなく、それまでケーテン宮廷楽団のために作曲した作品の中から6曲を選び出して、その楽譜を浄書して伯に送ったといわれる。(1)
3/24、J・S・バッハ(36)、ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調BWV1050
フルート、バイオリン、チェンバロの独奏群、バイオリン、ビオラ、チェロ、ヴィオローネの合奏群による。この協奏曲におけるチェンバロは通奏低音として用いられる一方、あきらかにコンチェルト楽器として用いられる。そのため、ある部分はチェンバロ協奏曲とみなすことができる。(2)
【参考文献】
1.作曲家別名曲解説ライブラリー・J・S・バッハ(音楽之友社)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)

SEAラボラトリ

作曲家検索(200名)、作品検索(6000作品)、音楽史年表検索(15000ステップ)が可能なデータベースを公開しています。ここから音楽史年表データーベースへリンクしてください。

音楽史年表記事編・目次へ


いいなと思ったら応援しよう!