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音楽史年表記事編70.弦楽四重奏曲創作史

 音楽史において弦楽四重奏曲はオペラや交響曲などに比べて地味な分野になりますが、作曲家にとってはわずか4つの楽器による構成にも関わらず作曲に注力した音楽分野です。例えば、恐らくモーツァルトにとってハイドンに献呈した6曲の四重奏曲集の作曲は生涯でもっとも推敲を重ねた作品であり、ベートーヴェンにとっても弦楽四重奏曲は作曲家としての作品の価値としてはピアノソナタや交響曲の上位に位置する作曲分野として捉えていたように思われます。バイオリン、ビオラ、チェロはバロック期にはすでに完成された楽器で、奏法技術においても古典派期までには現在と同様のレベルにあり、ピアノや管楽器など改良が続けられてきた楽器を用いた作品に対し、弦楽のみによる創作史は楽器の改良による影響はなく、弦楽四重奏曲創作史は純粋に作曲者の作曲技術の創作史とみることができます。
 バロックの器楽合奏において弦楽四重奏のジャンルを開拓した作曲家はイタリアのアレッサンドロ・スカルラッティといわれています。古典派期のハイドンは1757年頃の25歳前後には交響曲の作曲を始めていますが、同時期に弦楽四重奏曲の作曲も始めています。ハイドンは交響曲において様々な様式の交響曲を試し、4楽章の交響曲様式を確立し交響曲の父と呼ばれていると同時に、弦楽四重奏曲においても30曲の創作を経て、1772年には6曲の太陽四重奏曲作品20を完成させ、4楽章構成の最終楽章にはフーガを置くなど対位法を盛り込んだ弦楽四重奏曲の様式を確立し、弦楽四重奏曲の父とも呼ばれています。
 さらにハイドンは1781年には全く新しい方法でロシア四重奏曲を作曲します。この全く新しい方法について「モーツァルトの転調」の著者デーヴィッドは・・・展開部における転調の烈しさを連続的な主題彫琢によってマッチさせるプロセス・・・と述べています。我々には理解は難しいのですが、作曲の専門家にとってはインパクトがあったようです。この曲集の演奏でビオラを担当したモーツァルトは特に第3番ハ長調のバードカルテットには圧倒されたとされます。また、ハイドンはロシア四重奏曲ではベートーヴェンに先駆けて舞踏楽章のメヌエットの代わりにスケルツォを用いています。
 アイルランド人の歌手マイケル・ケリーは次のように報告しています・・・イギリスの作曲家ストレースでの室内楽の集いに行ったが、この日は次のような人物によって四重奏が演奏された。すなわち第1バイオリンはハイドン、第2バイオリンはこのときウィーンを訪れていたディッタース・フォン・ディッタースドルフ、ビオラはモーツァルト、チェロはボヘミアの作曲家ヨハン・バプティスト・ヴァンハルであった。プログラムに演奏者たちの作った曲が含まれていたことは明らかで、この日の音楽会の聴衆にはモーツァルトが大いに讃美していたパイジェッロ、イタリアの詩人で修道院長のカスティがいた。ハイドンとモーツァルトの間の暖かい交情は以上のような出会いの結果うまれてきたものであるが、これがモーツァルトのもっとも輝かしい作品のひとつ、すなわち1782年から1785年にかけて書かれ、ハイドンに献呈された「ハイドン弦楽四重奏曲」を生み出すきっかけとなったのである・・・。(1)
 モーツァルトがハイドンに捧げた6曲のハイドン四重奏曲の完成度は音楽史上最高の部類に属するものとなっています。モーツァルトはハイドンの様式を十分に吸収し、特に展開部においては従来にない規模と完成度に高め、さらに第1曲のト長調K.387の第4楽章ではフーガとソナタ形式を融合するという新しい試みを行っており、これはジュピター交響曲の第4楽章を先取りしています。
 そして、ベートーヴェンもモーツァルトのハイドン四重奏曲を「最高の芸術作品」と評しています。ベートーヴェンはウィーンに移ってからピアノ室内楽やピアノソナタなどで作曲家としての評価を得て、満を持して6曲の弦楽四重奏曲Op.18を作曲します。ロプコヴィッツ侯爵からの依頼で作曲されたこの曲集は当時一部の貴族から音楽史上最高の作品とも評価されたようですが、同じくこの時期にロプコヴィッツ侯爵から弦楽四重奏曲作曲の依頼を受けていたハイドンは2曲で作曲を中止しています。この件について音楽学者のランドンは次のように憶測しています・・・ハイドンがモーツァルトのクラヴィーア協奏曲の成果を知ったのち、クラヴィーア協奏曲を作曲しなくなったのと同じように、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲の登場が、ハイドンに作品77の曲集を2曲で中断させる原因になったのではないか・・・(1)。ベートーヴェンはその創作の最後に作品127以降の6曲の幽玄の後期弦楽四重奏曲を完成させます。
 ロマン派期には多様な弦楽四重奏曲が生み出されています。シューベルトのイ短調「ロザムンデ」D804やニ短調「死と乙女」D810。ベートーヴェンと同じく聴覚を失ったボヘミアの作曲家スメタナのホ短調「我が生涯より」、またアメリカに招かれたドボルザークはヘ長調「アメリカ」Op.96を作曲しています。また、ロシアではチャイコフスキーは第2楽章に「アンダンテ・カンタービレ」を含むニ長調弦楽四重奏曲Op.2を作曲し、そして特筆すべきはショスタコーヴィッチです。調性音楽と無調性音楽の対比を作曲のテーマとしていたショスタコーヴィッチはバッハの平均律クラヴィーア曲集に倣い、弦楽四重奏曲で全24の調性による創作を試みました。ショスタコーヴィッチは47年間にわたり15曲の弦楽四重奏曲を作曲し、未完で生涯を閉じています。

【音楽史年表より】
1772年作曲、ハイドン(40)、弦楽四重奏曲集「作品20」(太陽四重奏曲)Hob.Ⅲ-31~36
1772年ハイドンはシュトゥルム・ウント・ドラング時代の頂点ともいうべき6曲からなる弦楽四重奏曲集作品20を作曲する。ハイドンがちょうど40歳を数えるこの年、交響曲においてもシュトゥルム・ウント・ドラング時代を総決算した告別交響曲が生み出されたように、弦楽四重奏曲においても各曲が名作と呼ぶにふさわしい作品20の傑作群が発表された。作品20では数々の意欲的な実験が試みられている。それまでの作品ではメヌエットはすべて第2楽章に置かれていたが、作品20では3曲が従来の構成を踏襲する一方、3曲はやがて古典派弦楽四重奏曲の定型となるメヌエットが第3楽章に置かれる構成をとる。この時代の特色となる短調を主調とする作品が2曲ふくまれているのも、作品9や作品17の曲集との違いであるが、6曲中3曲までが終楽章をフーガとしていることは、シュトゥルム・ウント・ドラング時代の特色を端的に示す。(2)
1782年秋作曲、ハイドン(49)、弦楽四重奏曲Op.33(ロシア四重奏曲)Hob.Ⅲ-37~42
ハイドンは作品20の弦楽四重奏曲集から9年の間隔をおいて、1781年に作品33の弦楽四重奏曲集を作曲する。ハイドンはこの曲集を予約販売するにあたって記した手紙で「10年来弦楽四重奏曲をまったく書かなかったので、これらの曲はまったく新しい特別な方法で作曲された」と語っている。この「全く新しい特別な方法」とは一体、何であったのか、議論は今から100年以上も前に始まり、今日でも続けられている。ロシア四重奏曲では、だれにでも親しめる主題、単純明快な形式、それでいて充実した音楽が展開されるなど「パリ交響曲」にも通じる真に古典的と呼ぶにふさわしい響きの世界がくりひろげられる。(2)
12/31、モーツァルト(26)、弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387(ハイドン四重奏曲第1番)
1781年に作曲され1782年に出版されたハイドンのロシア四重奏曲を、モーツァルトはハイドンと共に演奏し、ソナタ形式の完成など全く新しい方法で作曲されたこれらの四重奏曲に圧倒され、ハイドンに献呈するために1785年までに6曲のハイドン四重奏曲を作曲することになる。これらの作曲には推敲が重ねられ、モーツァルトの最も輝かしい作品となったばかりではなく、後にベートーヴェンをも感嘆させた。モーツァルトはすでにこの1曲でハイドンの技術的な側面を完全に消化しており、ハイドンをして「まったくすぐれた作曲の技術」といわしめたモーツァルトの溢れるばかりの形式上の想像力は、4つの楽章に因襲的な表現を払拭してしまった個性的な相貎、そして全体に揺るぎない調和を与えている。(3)
1785年1/15初演、モーツァルト(28)、ハイドン四重奏曲前半3曲
モーツァルト、ハイドンをドームガッセの自宅に招き「ハイドン四重奏曲」の前半3曲を披露する。第1バイオリンにディッタースドルフ、第2バイオリンをハイドン、チェロにはヴァンハル、そしてモーツァルトはビオラを演奏する。(4)
2/12初演、モーツァルト(29)、ハイドン四重奏曲後半3曲
モーツァルト、再びハイドンを自宅に招き「ハイドン四重奏曲」の後半3曲を演奏する。この日は前半3曲も演奏されたものとみられる。ウィーンに来ていた父レオポルトによれば、この時ハイドンは彼に向って次のように語ったという、「誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです」。ハイドンとモーツァルトというこの2大作曲家の心温まる交流はハイドンがロンドンへ旅立つ1790年12月まで続くことになる。(4)
1899年4月初稿作曲、ベートーヴェン(28)、1800年夏改作稿作曲、弦楽四重奏曲第1番ヘ長調Op.18-1
フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。この曲の初稿はバイオリン奏者の親友カール・アメンダとの送別の記念に贈られた。この初稿の表紙には「四重奏曲第2番」のタイトルがあり、情感あふれる献辞と「1799年6月25日」の日付があり「第2番」はこの曲の作曲順を示している。ベートーヴェンは出版前の1800年夏に根本的な改作を行う。(5)
1899年8月作曲、ベートーヴェン(28)、弦楽四重奏曲第5番イ長調Op.18-5
6月から8月に作曲される。フランツ・ヨーゼフ・フォン・ロプコヴィッツ侯爵に献呈される。ツェルニーの回想によると、ベートーヴェンは彼の家でモーツァルトの弦楽四重奏曲集「ハイドン・セット」を見て、特に弦楽四重奏曲イ長調K.464の楽譜を開いて「これこそ芸術作品だ」と述べたという。モーツァルトのイ長調四重奏曲K.464と同じ調整のこのOp.18-5の類似関係については多くの研究者によって指摘されている。(5)
1824年2月~3月初め作曲、シューベルト(27)、弦楽四重奏曲第13番イ短調「ロザムンデ」D804、Op.29-1
「ロザムンデ」という通称は前年秋に書いた劇音楽「ロザムンデ」D797の第3幕への間奏曲を第2楽章の主題としていることによっている。出版は秋にウィーンのザウアー・ウント・ライデスドルフから作品29の1という番号でなされ、これも彼の弦楽四重唱曲中、生前に行われた唯一の出版であった。曲はシュパンツィヒに捧げられた。(6)
3月作曲、シューベルト(27)、弦楽四重奏曲第14番ニ短調「死と乙女」D810
曲は死に抵抗する少女と甘い言葉で死に誘う死神との対話を扱ったリート「死と乙女」D531(1817年作曲)を引用している。私的初演は1826年2/1にヨーゼフ・バルト邸で行われ、全曲の公開初演は作曲者の死後の1833年3/12ベルリンにおけるカール・モーザー四重奏団の四重奏の夕べにおいて行われる。(6)
1871年2月中旬作曲、チャイコフスキー(30)、弦楽四重奏曲第1番ニ長調Op.11
チャイコフスキーの個性を伝える最初の成熟した作品を作曲する。有名な第2楽章アンダンテ・カンタービレは69年夏カメンカで書きとめたウクライナ民謡「ヴァーニャは長椅子に座り」による。(7)
1893年6/23作曲、ドボルザーク(51)、弦楽四重奏曲第12番ヘ長調「アメリカ」Op.96、B179
ドボルザークはアイオワ州のスピルヴィルに到着した3日目の6/8に作曲に着手し、6/23に完成する。新しい作品が短い期間に完成に至ったことをドボルザークは大いに喜び、早速作曲家とアシスタントのコヴァジークとその家族によってカルテットが結成された。Vn:ドボルザーク、2Vn:コヴァジーク、Vla:コヴァジークの娘チェチリア、Vc:コヴァジークの息子ヨゼファ。ドボルザークはきわめて率直で自然を大いに楽しみ、スピルヴィルを訪問している間も、毎朝小さな果樹園を通り、川の土手に沿って歩く散歩を日課とし、鳥のさえずりを何より楽しんだ。そのような鳥のさえずりは、第3楽章のテーマを大いに鼓舞するものとなったようだ。(8)
1938年7/17作曲、ショスタコーヴィッチ(30)、弦楽四重奏曲第1番ハ長調Op.49
1938年の5/30から7/17に作曲される。ハ長調の屈託のないこの作品は、緊張の日々から解放されたショスタコーヴィチの和らいだ気分を伝えている。ショスタコーヴィチはこの作品について次のように述べている・・この曲の雰囲気は陽気で、春のようで叙情的だ。私はこれを「春」とでも名付けたい・・ショスタコーヴィチは24すべての調で弦楽四重奏曲を作曲する計画を立てていた。晩年になるにつれて、弦楽四重奏曲は交響曲に代わるショスタコーヴィチの創作の中心的ジャンルへと成長する。(9)

【参考文献】
1.ラング編、国安洋・吉田泰輔共訳・モーツァルトの創作の世界、E・F・シュミット著「モーツァルトとハイドン」(音楽之友社)
2.中野博詞著・ハイドン復活(春秋社)
3.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
4.モーツァルト事典(東京書籍)
5.ベートーヴェン事典(東京書籍)
6.作曲家別名曲解説ライブラリー・シューベルト(音楽之友社)
7.伊藤恵子著・作曲家・人と作品 チャイコフスキー(音楽之友社)
8.内藤久子著・作曲家・人と作品 ドヴォルジャーク(音楽之友社)
9.千葉潤著・作曲家・人と作品 ショスタコーヴィチ(音楽之友社)

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