音楽史年表・記事編8.マリア・テレジア、フランスと同盟を結ぶ
1756年、ハプスブルク家の女帝マリア・テレジアはイギリスとの同盟関係を破棄して、フランスとの同盟関係を結びました。イギリスはオーストリア継承戦争では数少ない同盟国でしたが、イギリスは領有するハノーファーをプロイセンから守るためにプロイセン側に付きました。シュレージェンを奪われたマリア・テレジアはプロイセンを許すことができなかったので、プロイセンを包囲するためにロシアとともにフランスと同盟を結びます。また、フランスは海外の植民地覇権でスペインとともにイギリスと争っていましたので、ハプスブルク、ロシアと同盟を結ぶことには理があると見て同盟に至ります。
1760年ハプスブルク家の長男ヨーゼフ・ベネディクト(後の皇帝ヨーゼフ2世)がパルマ公女イザベラと婚礼を挙げます。イザベラはスペイン王フェリペ5世の孫にあたり、フランス国王ルイ15世の孫でもあり、フランスとの同盟には最もふさわしい婚礼であり、また同時にフランス国王ルイ15世の孫ベリ公ルイ(後のフランス国王ルイ16世)とハプスブルク家の公女マリア・アントニア(マリー・アントワネット)の婚約が成立しています。
女帝マリア・テレジアは徹底してプロイセンのフリードリヒ2世に敵対しましたが、大公ヨーゼフは敵方でありながら啓蒙主義者のプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していました。このことにより母子の間には確執が生まれるのですが、ヨーゼフのプロイセンへの接近は大公妃イザベラの影響とみられます。フランスはもともとプロイセンと近く、プロイセン宮廷には多くのフランス人楽士が雇われており、フランスはプロイセンの啓蒙主義の影響を受けていました。
1763年に妃のイザベラは天然痘にかかり21歳の若さで亡くなりますが、ヨーゼフの啓蒙思想が妃からの影響と思ったのでしょう、マリア・テレジアはヨーゼフを、かつて皇帝位を簒奪したバイエルンのカール7世の公女マリア・ヨゼファーと再婚させます。この政略結婚によりヨーゼフと母マリア・テレジアの確執は更に深まったようです。この母子の確執が、後のモーツァルトと女帝マリア・テレジア、皇帝ヨーゼフ2世との関係に影響を及ぼすことになります。
【音楽史年表より】
1756年1/27、モーツァルト(0)
夜8時、ザルツブルクのゲトライデガッセ9番地のヨハン・ローレンツ・ハーゲナウアーの家の4階で、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト生まれる。(1)
1756年5月、モーツァルト(0)
フランスはオーストリア・ハプスブルク家およびロシアとの間で3国同盟を締結する。北ドイツのプロイセンに対抗するために、1746年にロシアと同盟を結んだオーストリア・ハプスブルク家は、1750年以来フランスに働きかけて1756年5月3国同盟が成立する。その同盟条約の一環としてフランス国王ルイ15世の孫ベリ公ルイとハプスブルク家皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの間の11女にあたるマリア・アントニア(フランスではマリー・アントワネット)の婚約が成立する。(2)
1760年、モーツァルト(4)
ヨーゼフ・ベネディクト(ヨーゼフ2世)、パルマ公女マリア・イザベラと結婚する。イザベラの父はスペイン王フェリペ5世の王子のパルマ公フェリペ、母はフランス王ルイ15世の王女ルイーズ・エリザベートであった。しかし、イザベラは1763年11/27天然痘のため、21歳の若さで死去する。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.今谷和徳・井上さつき共著、フランス音楽史(春秋社)
SEAラボラトリ
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