音楽史年表記事編40.モーツァルトの聖母マリアへの深い信仰
戴冠式には次の4つ戴冠があります。第1はローマ皇帝の戴冠です。皇帝の戴冠はローマ教皇によって行われましたが、神聖ローマ帝国のマクシミリアン1世以降は、教皇による戴冠は行われなくなります。第2の戴冠はローマ皇帝妃の戴冠です。古代ローマでは皇帝の妃も教皇から戴冠されました。パリのルーブル美術館のダヴィッドの「ナポレオン戴冠」ではナポレオンが后のジョゼフィーネに戴冠していますが、古代ローマの習慣に倣ったものでしょう。第3の戴冠は、ボヘミア王やハンガリー王などの国王の戴冠です。そして、第4の戴冠は聖母マリアの戴冠です。ラファエロなどの名画に残されるように、聖母マリアは天にのぼりイエス・キリストから戴冠されました。
モーツァルトの戴冠式ミサ曲K.317は、通説では皇帝レオポルト2世あるいは皇帝フランツ2世の戴冠式に演奏されたためとされていますが、カルル・ド・ニによればザルツブルクの北4Kmにあるマリア・プライン教会のマリア像の戴冠にちなむものとされています。いずれにしてもモーツァルトは家族とともにこのマリア・プライン教会を訪問しており、聖母マリアに対して深い信仰を持っていたようです。そして、モーツァルトは戴冠式ミサ曲の終曲のアニュス・ディを歌劇「フィガロの結婚」第3幕の伯爵夫人のアリア「美しき日はいずこ」に用いています。カルル・ド・ニは「モーツァルトは伯爵夫人に、神の子羊(アニュス・ディ)である聖体を初めて拝領した汚れなき幼い日々を思い起こさせている」としています。
また、モーツァルトは歌劇「フィガロの結婚」の第2幕の伯爵夫人のカヴァティーナ「愛の神よ、御手を」には、ザルツブルク時代の最後のミサ曲ハ長調K.337の終曲アニュス・ディを用いていますが、モーツァルトはザルツブルク時代から最晩年のモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618に至るまで、聖母マリアにちなむ名曲を創作し続けましたが、これは聖母マリアに対する深い信仰の現れからでしょう。
【音楽史年表より】
1779年3/27作曲、モーツァルト(23)、ミサ曲ハ長調「戴冠式ミサ」K.317
1791年8月から9月の間にプラハで挙行されたレオポルト2世、あるいはその突然の逝去に伴って同じプラハで翌92年8月に催されたフランツ2世の両オーストリア皇帝のいずれかの戴冠式にこのミサ曲が演奏された可能性が高く、ここに曲名の由来を求めるのが今日の通説となっている。(1)
カルル・ド・ニによれば、この名のおこりは明らかにザルツブルク地方における、ある伝統に寄っていると考えられる。ザルツブルク北郊にあるバロック様式のマリア・プライン教会では、この土地からほど遠からぬバイエルン地方から、この教会に持ってこられた聖母マリアの画像が1744年に戴冠された。1751年にはローマ教皇がその冠を祝福した。この伝統によって、モーツァルトはこの教会のために、1779年の聖霊降臨後第5の主日のためにミサ曲を作曲したのである。なお、モーツァルトは終曲アニュス・ディにおけるソプラノのソロをほとんどそのまま「フィガロの結婚」の第3幕の伯爵夫人のアリア「美しき日はいずこ」に用いている。モーツァルトは伯爵夫人に、神の子羊(アニュス・ディ)である聖体を初めて拝領した汚れなき幼い日々を思い起こさせているのである。(2)
1780年3月作曲、モーツァルト(24)、ミサ・ソレムニス ハ長調K.337
モーツァルトがザルツブルクのために書いた最後のミサ曲。枝の主日(復活祭直前の日曜日)のためと推測される。(1)
この歌詞の解釈の基礎となっているのは、きわめて神学的なものである。この素晴らしい、まさに悲劇的といえるフーガの書法も、表情豊かな不協和音も、また悲痛な響きの短音階も、すべて救世主キリストの死を感動的に表現しているのである。このミサ曲のアニュス・ディもソプラノのソロで始まるが、明らかに「フィガロの結婚」の伯爵夫人のアリア、第2幕の最初のカヴァティーナ「愛の神よ、御手を」を先取りしたものであることは疑いを容れない。オペラの中にもちいたことの意味はけっして瀆聖などではなく、むしろ「無益だった日々」を霊的に清めるという意味を持たせているのである。このことは劇中の伯爵夫人のおかれた状況を想い出し、また彼女によって歌われる歌詞を再読してみれば容易に理解できよう。この曲はモーツァルトの手になる最後のアニュス・ディであるが、これほど美しい終曲をもつミサ曲は他には存在しない。(2)
1791年6/17作曲、モーツァルト(35)、モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」K.618
テキストは法王インノケンティウス6世ともいわれ、古くからミサにおけるテキストとして伝承されてきた。バーデン保養中の妻コンスタンツェの世話をしてくれた友人の合唱指揮者アントーン・シュトルへの答礼のために作曲され、贈呈された。(5)
シュトルは何年も前からヨーゼフ・ハイドンやモーツァルトの友人でもあった。ヒステリー症だったハイドンの妻はシュトルのところに身を寄せ、そこで死んだ。モーツァルトはシュトルに自分の教会音楽の楽譜を貸したり、ミヒャエル・ハイドンの教会音楽の楽譜を手に入れてやっただけではなく、村の小さな教会でシュトルが聖歌隊を指揮していると、これに加わったりもしていた。モーツァルトがアヴェ・ヴェルム・コルプスの初演のときに、自らバーデンの教会のオルガンを弾いたということもありえないことではない。おそらくこの初演は四重唱か小さな合唱と弦楽器の独奏者たちによって行われたのであろう。カール・ガイリンガーは「わずか46小節しかないこの曲の、このような限られたスペースの中に、古典主義の情熱と美しさをこれほど注ぎ込んだ人はかつてなかった・・・」と述べている。(2)
【参考文献】
(1)モーツァルト事典(東京書籍)
(2)カルル・ド・二著、相良憲昭訳・モーツァルトの宗教音楽(白水社)
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