帰国子女の等価交換【「英語、気づいたら話せてた」の裏】
「お父さんの仕事の都合で小さい頃海外で育った」
言葉にしてみると、夢物語の令嬢のように聞こえますね。
しかし、実際いいのは「聞こえ」だけ。
海外生まれはまた違ってくると思いますが、私は5歳の頃にまさに上の理由である日ロサンゼルスにいました。
5歳というとキンダーガーテン(幼稚園)の年長組みたいな微妙な年齢なのですが、いきなり地元の小学校に放り込まれたのでした。
おすすめ!最初に覚える英単語3選!
母親が教えてくれた単語はわずか3つ。
「イエス」
「ノー」
「トイレに行かせてください」
大人になった今振り返ってみても実に良いチョイスだったと思います。
(特に3番目が)
幼いうえに馬鹿だった私は「言語が違う」という概念を持たないままアメリカ人のクラスメートたちに恵まれ、数年間は自分が英語を喋っているということさえ気づきませんでした。
普通の子供が日本語を自然に覚えていくように、私も英語の中にいる間に彼らの言葉を習得していったのでした。
「楽でいいな~、自然にペラペラになれたなんて!」
「ほんっと帰国子女ってみんな超ラッキーだよね!」
今でもこういったことは言われます。
「気づいたら喋れてた」
確かに「英語がコミュニケーションのツールよりステータスになる」日本だったらそう思われるのも必然かもしれません。
でも昔どこかの誰かが言ったように、
『人は何かの犠牲なしに何も得ることはできない。何かを得るためにはどれと同等の代価が必要になる。』(引用元:マンガ)
が英語を習得する過程でも起こっていたのでした。
帰国子女の等価交換
アメリカンスクールに入学して流暢になるまで
後に母から聞いた話なのですが、私がアメリカの現地校に通うようになった初めの数か月は眠っている間「赤ちゃん返り」をしていたようです。
というのも、1~2歳児に見られる「指をしゃぶる」のを寝ながらしていたとのこと。
母親はその時、起きている間はアメリカや学校に溶け込んでいる子だけれど、子供ながらその精神にものすごく負担がかかっていたのだとわかったのだと言います。
もちろん、私は寝ていたので全く覚えていません。
その方が幸せなのかもしれない、と私の勘が訴えているのが何となく聞こえます。
日本の小学生の行動は意味不明なものばかり
英語で苦労しなくなったのにはもう一つ等価交換の材料が待ち受けていました。
それも日本に帰国した後です。
自分と同じ人種であるにも関わらず、アメリカの太陽で焼かれた赤い髪をしていた私は嫌でも近所で目立つ存在になります。
(美容院でも「これ、染めたの?」と言われるほど赤かったそうです)
もう誰でも推測できると思いますが、当然「いじめ」の対象になります。
しかしいじめが存在しなかったアメリカの現地校で育ったため、「いじめ」の概念も当時は理解していませんでした。
ただただ、私個人が全く知らない人からなぜ意味不明なことをされるのかさっぱりわかりませんでした。
意味不明なこと①
上履きに画びょうを入れられる
ある日なぜか自分の白い靴の中に画びょうが上向きで入っていたので、鈍感な私でも驚きました。
「あっぶな!刺さったらどうするんだろ。」
などつぶやきながら、隣の靴箱に画びょうを置いてしまう私(笑。
悪意がこもった行為だは全く気が付かなかったのです。
(隣の靴箱だった子、ごめんね…)
意味不明なこと②
「体育館」の裏に呼び出される
いつも意味不明なことは靴箱で起こります。
今度はメモでした。
「え~っと…『ホウカゴ タイイクカンノ ウラ ニ コイ』?」
明らかにリンチの予告なのですが、ここで問題が。
日本に帰国したばかりの私は「ホウカゴ」と「タイイクカン」の意味が分からなかったのです(笑。
「ここは日本だ!わからないコトは、センセーに聞こう!」と
そのメモを持ったまま、スタッフルーム…もとい、職員室へ。
もちろんすぐ家に帰らされ、先生がタイイクカンの裏に行って注意したのだと思います。
などなど、思い出せるいじめ未満の珍話はまだまだあるのですが何分バカだったためにトラウマになるようなことはありませんでした。
唯一思ったのは、「私、この人たちに何かしたっけ?」ということ。
日本に来て差別を経験することになるのでした。
チートか、呪いか、英語能力
中学は親から離れたかったために田舎の真っただ中にある寮へ、高校は語学に強い私立に入学します。(後に留年、退学)
高校はグラマー、オーラルとやたら英語教育に力が入っていたので楽、総合成績では上位にいることができたのですが、英語担当の日本人教師がやたらプライドが高く、英語の文章を自分で読むよりも私にいつも読ませていました。(読んだ分の給料くれ…)
その後就職した時代遅れの企業でも、大学で英語を専攻したというだけで私を理由なく目の敵にしてくる良い年したおばさんがいたり…。
そのころには日本社会に小学生だった時よりは慣れ、
「英語は自分か自分の家族・友人のためにしか使わないでおこう」
と決めていました。
でも言語が好きな私にとって趣味・救いでもある英語とアメリカ文化は常に身の近くに置くようにして、能力が劣ることないよう努力していました。
今ではアメリカ人の婚約者と一緒に住み、日本語を喋ることの方がはるかに少なくなりましたが、こうして文章を書いたり、小説を読んだりしています。
もしあなたが帰国子女と出会うことがあったなら、その人にもその人のストーリーが必ずあります。
私ほどバカで鈍感な人がいたら、是非友達になりたいです。笑
無意識に英語(やどの言語でもOK)を喋れるようになるのは、脳が「どの言語が重要か」と決める7歳までと言語学の研究で発表されています。
たまたま私は機会と環境に恵まれてましたが、上記のようなハンデも負わされています。
「等価交換」なんて安っぽい言葉しか浮かんでこない自分が恨めしいですが、まさに幼少の頃能力ゆえに味わった苦労を表現するのにぴったりだと思った所存でございます。
マンガのセリフだしね。