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鬼軍曹

社会人たるもの、身なりには気を付けなければならず、自由気ままな髪形というわけにもいかない。黒髪で短髪といった清潔感溢れる出で立ちであれば、昭和を生き抜いてきた男達からの評判が良いのは確かだ。
 
新卒で入った企業の本社には、自衛隊上がりの役員が在籍しており、身だしなみに対しての厳しさは有名で、諸先輩方も指摘されないよう神経を張りつめていた。
一見すると細身の老人にしか見えないが、目の奥には何とも言えない圧がある。
 
「軍曹には気をつけろ。」先輩社員から最初に教わったものと言っても過言ではない。自衛隊上がりの役員は軍曹と裏で呼ばれていた。本当はもっと上の階級だったらしいが、ニックネームなどはそんなものだ。真剣に取り合ってはいけない。覚えやすく言いやすい、キャッチーさがあればそれで充分なのである。
 
軍曹は特に髪型への執念は常軌を逸しており、社内規則に沿った髪型でないものの情報を得ると、何処からともなく現れては軍隊式の尋問を迫られるのである。
とくに若く“長髪”の男への風当たりが強かったと記憶している。きっと目の敵にしているに違いない。磁石についた砂鉄のようなヘアスタイルを見ると一目瞭然である。とにかく毛量の多き者がターゲットなのだ。
 
「おい、ちょっと待て」
ある日のこと、本社を出入りしていたら呼び止められた。軍曹だ。
普段から気を付けてはいたが油断していた。しゃがれた声に従い振り返る。
 
「髪長くないか?」
やはり来たか。そもそも目を付けられていた節がある。というのも入社したての頃、私は俗に言うオシャレメガネをしていたのだ。そんなに奇抜なものではない、フレームが太めな黒縁メガネだ。
今となっては普通だろうが、当時黒縁メガネはあまり浸透しておらず、サラリーマンが身につけるというイメージは無かったのかもしれない。
これが社内で物議を醸していたことは後で知ったのだが、風紀委員長である軍曹が反対派であったことは言うまでもない。結果的には規定にはメガネの種類まで指定されてはいなかった為、不問となっていたのだ。
 
「申し訳ございません、今週末には散髪に行く予定でございます。」
深々と頭を下げる。少しでも早くこの場所を離れたかった。本社という相手のフィールドでは断然こちらの不利である。直属の上司まで加わろうもんなら、普段の業務態度まで指摘されかねない。この後自分の身に訪れるであろうサンドバック状態を覚悟しつつ、ゆっくりと上体を起こし軍曹の方を見た。
 
あれ、笑っている。こんな無垢な顔を見るのは初めてだ。何か良いことがあったのに違いない。
拍子抜けし、安堵に満ち溢れた後に軍曹は言った。

「いっそのこと、俺みたいな髪型にしちゃえばいいのにな。」

なんてことだ、これは冗談を言っているに違いない。まさか自虐的なネタを言ってくるとは夢にも思わなかったが、機嫌が良いところも初めてだ。本当は自虐ネタをよく使うタイプなのではないか。
 
軍曹の内なるものに触れられた気がした。
ここは真面目に対応してはしらけてしまうだろう。渾身のギャグには合わせてあげないといけないのではないか。この老人も寂しいのかもしれない。
幾ら役員とは言え、試されているのであらば受けて立つしかない。これはテストなのだ。この先待ち受けるであろう荒波を超えるための試練だ。
私はあえて目ではなく、頭上にまぶされた砂鉄に向かって答えた。
「あはは、嫌ですよ、そんなの」
 
時がとまる。
あれ、既に笑っていない。先ほどまでの無垢な笑顔は消え失せ、能面のような顔がそこにはあった。
「笑われちまったなぁ。笑われちまったよ。」
真顔で呟きながら、心なしか少し震えている。
しまった、老いぼれていても会社役員なのだ。
もう少し気の利いた言い回しがあったのではないか。

もう一度チャンスを……
数メートル向こうからは何も知らない直属の上司が、こちらに向かってゆっくりと歩いて来ていた。

何故あのような返しをしてしまったのか未だにわからない。
学んだことは、調子には乗っていけないということ。
普段の生活にも罠が張り巡らされているということ。

その後、一言も口を利くことなく軍曹は引退していった。
ありがとう軍曹。
少しだけ大人になることが出来ました。


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