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怒りの感情が欠落した話

中学生の頃、お坊さんからこんな話を聞かされた。

怒りというのは、自分と他人の価値観が異なるときに生まれる感情です。
怒りの原因が価値観の違いにあると気付けば、衝動的な怒りは鎮められますよ。
誰かにムッと思ったとき、怒りに身を任せるのではなく、怒りを持った自分から一歩離れて客観視してみましょう。
そうして自分の価値観と同じくらい、他人の価値観も尊重してみましょう。解決の糸口はそこから見つかるはずです。

もともと自分は怒りっぽくなかったけれど、善いことを言うなあ、さすがお坊さんだ、と深く感心した。そしてこのお坊さんの言葉を愚直に実践するようになった。

この方法がアンガーマネジメントと呼ばれている広く一般的な智恵だと知るのは、大人になってからだ。


以来、自分は誰かに怒ることがなくなった

友達が遅刻してきたときも。飼い犬に手を噛まれたときも。自分の好きなものを恋人に否定されたときも。

「理不尽だな」とは感じるものの、(この人はこういう価値観なんだな、自分とは違うんだな)と心の中で思えばそれで納得。怒りを露わにすることは無かった。

そうやって、様々な人間関係を波風立てずにのらりくらりと過ごしてきた。それで良いと思っていた。円満で良いじゃないかと。


でも、怒りは人間に必要な感情だ。憤怒は大罪なんかじゃない。そう思うようになった。

人が怒りを表明するとき、その人のアイデンティティは強く輝いている。正当に(=暴力や誹謗中傷などはせずに)表明される怒りは、その人の自己実現の手段として至極真っ当だ。

自分は、価値観がぶつかり合ったときに、いそいそと自分の主張を取り下げていただけだ。他人の顔色を伺って媚びへつらっていただけだ。そんなことを何年も続けて、自分のアイデンティティを極限まですり減らしてしまった

自分の好きなもの。自分がなりたい姿。自分の思想・心情。

それらを否定されても、もはや”怒ることができない”人間になっていた。自分自身は短髪にしたいのに、恋人が断固拒否するもんだから諦めて髪を伸ばしていた時期もあった。

その恋人とも別れ、自分らしさの追及を自ら放棄していたと気付いたとき、自分は寂しい人間だなと深く落ち込んだ。同時に、何かに怒っている人が眩しく見えた。


長年染みついた癖はそう簡単に抜けられない。今でも怒りの感情を表に出すのは苦手だ。地道なトレーニングが必要だと思う。

まずは、自分の好きなもの・信じているものを大切にしていこう。そうしていれば、欠落した感情もいつか取り戻せると思うから。

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あごひげ20cm
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