鼻っ面を折られる準備はできていた。
いちおう、文章を書くものの端くれではあります。
しかし、「個人の趣味の範囲内」という制限付きです。
改めて昔読んでそのまんまになっていた本を読み返していると、「文学賞を取る人の感性どないなっとんねん」と思わされました。
まず僕は小説が書けません。小説が書ける時点であなたは僕より凄いです。アフリカの子どもにとっての、雪だるまの作り方と同じです。
未知の領域にあります。
小説が書ける人の中で戦闘力53万くらいある人たちは何らかの賞をもらっていたり、出版社から本を出したりされています。存命する作家の中には、国語や歴史の教科書の「文化史年表」に名を連ねている人がいます。
例えば、江國香織さん。
今日の僕のエッセイを見て「何お前、『号泣する準備はできていた』をもじってタイトルつけてんだ!」
って思った人は読書家か教養のある人だ。
知識は、トイレットペーパーです。
独占してはいけない。
時を進めよう。
***
はじめて江國香織さんと出会ったのは小学生の頃でした。
天動説を声高に唱えていた人が突如宇宙に連れていかれ、銀河系を外から見たような、当時の感情を表すためには言葉なんかとても追いつかない。
自分の理解を越えているが、「すごい」ことだけは伝わる。
「号泣する準備はできていた」に出会ったころから「女性はどんな風に世界を見ているのか」について考え始めました。
様々な情報を取捨選択した結果「多くの女性たちは男性とは異なる観点で世の中を見ている。が、豊かな感性と表現力を高い次元で両立している人はそういない」ということが分かりました。
江國香織さんの全ての作品に出てくる人物を把握していませんが、主人公と語り部を兼ねるキャラクター達と僕とは仲良くなれないと思います。確実に趣味嗜好や人生の歩き方が違う。
自分と自分が選ばなかった生き方、どっちが模範解答に近いかは誰にもわからないものです。
ただ、お互い「その生き方、しんどくない?」と思い合うでしょう。
普段なら「この理屈屋」や「屁理屈をこねるな」という言葉も「理論的に物事を処理できない人に残された自爆攻撃」程度にしか思いません。
しかし、江國香織さんの本を読み終えると、自分が「旧式のロボット」ではないかと感じます。人間として、「自分はどんな感情が根底にあっていきているのか」を言語化できる程度に認知しておかないとずっと不安なまま生きていくことになる。
色々思い出したりしました。嫌だったことと嬉しかったこととを思い出してみました。どうやら、「無知だと思われたくない」
「帰属する集団の構成員の本分を全うする際に必要とされたい」
という欲望が感情の根源にあるようです。
このことに気づいたとき、僕は「旧式のロボット」なんかじゃない、一人の人間なんだと改めて気づきました。