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ブラの隙間に潜む願い——佐原ひかり『ブラザーズ・ブラジャー』 〜古典的少女漫画から『犬王』まで~


※未読の方は、まずこちら↓のあらすじをどうぞ。


「家族」の物語は古今東西を問わず語られてきたが、三浦しをんの小説群にも見られるように、近年は「血縁によらない家族」への興味関心が増しているように思われる。

三原順『はみだしっ子』シリーズは、この分野では先駆けの少女漫画だ。
シリーズ中盤で13歳になったアンジーは、幼い頃に捨てられた母への愛憎に区切りをつけようと、髪を伸ばす。

「この髪はね いいかい?
 幼少のみぎりより母親似と評判のオレ様が
 せっせせっせと ののしりの声にもまけず
 ここまでのばしたもの!
 (中略)
 ホラ! 髪がのびたいま
 オレ様すっかりママのようだろ!
 だから…オレはママになるの!
 ママになって
 オレはオレを生みなおすの!」
 (『もうなにも……』より)

1979年発行のコミックス。かなり黄ばんでしまった

佐原ひかり『ブラザーズ・ブラジャー』の晴彦がブラを着けているのも、もしかしてアンジーの髪と同じ理由からではないのか?と考えてみた。
本人は「ふつうにおしゃれでやってる」「単純にブラジャーの形が好きなのかもしんねえ」と言っているが、贅沢な素材やレース、刺繍、色柄デザインの美しさを堪能したいのなら、少年の身体にはブラよりもキャミソールやショート丈のキュロットペチコートなどの方がより自然にフィットするはずだ。
本文中には「晴彦が今着けているブラジャーは、伸ばしたてのひらをぴったりと胸に当てたみたいで、晴彦の骨や肉のラインに綺麗に沿っている」とあるが、14歳の身体がどんなに華奢でも、ふくらみのない男子の胸板とブラカップとの間には、隙間ができるだろう。
そこには、アンジーのように自分で自分を赤ん坊から育てなおしたい、という晴彦の無意識の願いが潜んでいるのではないだろうか。
赤ん坊を育む乳の出る「乳房」と「ちぐさ」という名前を縁語と見るのは、こじつけにすぎるだろうか。
晴彦がいつからブラを着け始めたかは書かれていないが、親の離婚時が小4なのでそれよりは後だろう。幼かった彼が自分を責め、一人で背負い込んでしまった罪悪感は、ブラジャーとは無関係だろうか?

画集に使われた『菊花の便り』扉絵と新潮社版の作品集。偶然だが、帯に氷室冴子氏の推薦文がある。

花郁悠紀子『菊花の便り』は、能の『菊慈童』を題材として、別れた父子の苦悩を描く。大学教授である父を尊敬し慕ってもいたのに、ある事情から母と暮らす方を選んだ息子・文(=あや、当時14歳)の設定は、晴彦と共通する部分が多い。
大きな違いは、冒頭から文が23歳で事故死してしまうことだ。知らせを受けた父は息子を菊慈童になぞらえて後悔を重ねるが、文が9年間父宛に書きためた手紙が見つかって、隠されてきた秘密が明かされ……というミステリー要素も備えている。
悲劇的だが同時にハッピーエンドでもあり、能の挿入も効果的な名作なのだが、他方で、文はあまりにも諦めがよすぎると個人的に思うのだ。彼は周囲の人々の身勝手な思惑の犠牲になったようなものだが、自らの思いは全て父への出さなかった手紙に封印した。
「文=あや」という名はもちろん「文=ふみ」の意だろう。
『菊慈童』のストーリーには反するが、文はもっと我を張って、もっと抗ってもよかったのに!と不憫になってしまう(親戚のおばちゃん感)。
そんな私のもやもやした気持ちを、ちぐさが代弁してくれた。

「なんだって晴彦が、晴彦だけが、裏切られた過去と忘れられていく約束にひっそり傷つき続けなくちゃいけないのか。寛大なこどもとして振る舞わなくちゃいけないのか。」
「物わかりのよさなんて、捨てればいい。怒ればいい。うつむいて、黙りこくっているより、よっぽどいい。」
「晴彦は、やさしい。でも、そのやさしさのいくらかは、晴彦の傷口から流れ出たものだ。」
(『ブラザーズ・ブラジャー』続編の『ブラザーズ・ブルー』より)

詩歌を愛読するという佐原ひかりの文章はリズミカルで、簡潔でありながら深く、情景や心象を繊細に描写する。
『ブラザーズ・ブルー』は私にとって、『菊慈童』の呪いを脱却した文のアナザーストーリー、「あらまほしき先達」だ。文が違う道を選んでいたら、あるいはこんな未来も開けていたのかもしれない、と。
私の中の文が成仏したような気がすると同時に、ちぐさにこう言ってほしかったのは、私自身でもあったと気づいた。「こども」どころか老年に差しかかった年齢になってなお、インナーチャイルドは滅びないらしい。

今、この文章をOASYSで書いているのだが、長文執筆は数年ぶりのことだ。目を手術したことと、PCの不調かずっとソフトが使えなくなっていたのが、これを書くにあたって試してみたら、なぜか突然復活した!ヒャッホーイ
親指シフト入力は思考を妨げないので、書くのが楽しい。書いては直し、また書いて……
書くことを諦めなくていいのだ、と思った。
疫病や戦争で不穏な世の中になり、病気も合わさって、できないこと、我慢することが積み重なっていった。そういうものだからと自分に言いきかせて納得していたつもりだったが、こんなに自らを抑えつけていたとは。

そこへ『犬王』が現れた!
絶賛上映中のアニメ映画で、『菊花の便り』とは能楽つながりになる。(※観世流のみ『菊慈童』といい、同じ演目を他流派では『枕慈童』と呼ぶ)
室町時代、猿楽師の犬王は呪詛を受けて異形の姿で生まれたが、相棒の琵琶法師・友魚と共に新曲を産み出すことで呪いが浄化され、本来の身体を取り戻してゆく。己にとり憑いた平家の魂に突き動かされてひたすら物語を拾い、舞に昇華しているのだが、友魚との出会いがなければ芸を極められなかっただろう。
犬王も、仲間と手を組んで自分で自分を生みなおしている!

ちぐさは晴彦の隠された罪悪感にまでたどり着き、それを吐き出させることに成功した。一人っ子だった晴彦は姉という理解者、協力者を得て、ようやく新たな一歩を踏み出すことができたのだが、『はみだしっ子』のアンジーにも、後にそろって養子に入って兄弟となる3人の仲間たちがいた。
『菊花の便り』の文も一人っ子だが、彼には……(ネタバレ回避、読んで!)

そんなことを考えていたら、Twitterで佐原ひかり自身の声が降ってきた。

「わたしは「大人」への憎しみだけを原動力に小説を書いているような人間なのです…笑」
(@sahara_hikari ・19:16・2022/06/10・Twitterより)

『はみだしっ子』シリーズでは、親や大人たちへの怒り、不信とそれに伴う悲しみが何度も繰り返し描かれる。この人はたぶん、グレアムにいちばん近いのかもしれない。
犬王の場合は、恨みや憎しみといった物心がつくより前の、胎児の頃に呪詛を受けているので、本人にはその自覚も無かっただろう。ごく幼いうちから、兄たちの稽古を真似てはたちまち習得し、その舞の美しさの褒美として、呪いが解けて肉体が浄化されていったのだ。
「大人」を憎んだ少女が作家に成長して、物語を次々と生み出しているように、ちぐさと晴彦にも何かこの先進む道が見つかるといい。晴彦が却下したちぐさの提案も実現したら面白そうなので、まずはみかどさんに会いに行こうよ、晴彦。

映画の『犬王』にシビれたので原作も読んでみたら、もっと痺れた。
古川日出男『平家物語 犬王の巻』は、次のように幕を閉じる。

「それから最後に、こう言うんだよ。『さあ、お前、光だ』って」

これはなんという暗合か。

「佐原ひかり」というのは、美しい筆名だ。
佐原=サハラは、あの砂漠を連想させる。内田善美『時への航海誌』では "褐色の無" に「サハラ」とルビが振られていたので、それがアラビア語で「無」を意味することは知っていた。
「佐原ひかり」の紡ぎだす物語には、「無に差す光」も込められているのかもしれない。
私は受け取った。


参考資料:

・佐原ひかり『ブラザーズ・ブラジャー』(河出書房新社)2021年
・三原順『もうなにも…』1978年
(『はみだしっ子8 カッコーの鳴く森』(白泉社 花とゆめCOMICS)所収)
・花郁悠紀子『菊花の便り』1979年
(『幻の花恋』(秋田書店PRINCESS COMICS)、『四季つづり』(秋田文庫)、同題(新潮社アリス・ブック)に所収)
・映画『犬王』2022年公開
・古川日出男『平家物語 犬王の巻』(河出文庫)2021年
(単行本は2017年)
・内田善美『時への航海誌』1978年
(『ひぐらしの森』(集英社ぶ~けコミックス) 所収)

※自分の読書体験から思い浮かんだものを参照したが、初出時に読んだわけではないので、1978年頃に集中しているのは偶然。

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