眠と覚と生と死
今日は丸一日予定が無かったので、たまたまSNSで知った「眠り展」に足を運ぶことにした。
通っている(今は行ってないけど)大学から程遠くない位置にありながら、行ったことはなかった東京国立近代美術館での開催だった。
休みの日のふとした時に、ちょっと美術館へ足を運んでみる行為は、学生ながらちょっと大人びることが出来るというか、いいオトナになったような気がして心地よい。
ここに、本格的な美術知識がつけば、尚良いのかもしれないけど、もしそうなったとしたら、俺の性格上、ドヤ顔で訳わかんないこと書き連ねて嫌われるのが関の山なので、謙虚な気持ちで作品を見るぐらいの方が丁度いいのかもしれない。
さて、この眠り展は、その名の通り「眠り」に関連して生み出された表現を私たちに提示するもので、絵画にとどまらず、立体や写真、映像など、ジャンルは多岐に渡る。
誰の、どんな作品があったのかということは是非足を運んでいただきたいので割愛するが(2021年2月23日まで開催中)、古今東西のアーティスト達が、「眠る」という行為をどのように捉え、そして私たちはどう捉えるべきなのか、ということを考えさせられる素晴らしい展覧会だったことはまず書きつけておきたい。
「眠る」は、そのまま、「目を瞑って睡眠を取る」という意味であるが、彼らはそこに「死」や「無関心」「反逆」といったイメージを見出し、作品に投影している。
たとえば、(ネタバレ)阿部合成という画家が描いた「百姓の昼寝」という作品では、藁のようなものの上に数人の百姓が雑魚寝しているという、シンプルな描写だが、描かれた時代背景を鑑みると、戦時下における過剰な農耕促進へのサボタージュや抵抗と読み取ることもできる。
このように、眠ることで、表裏一体となったもう片方のイメージをあえて強く浮き彫りにする作品が並ぶのが、「眠り展」なのである。
私たちは、この作品を一方的に見ることになるが、対象から見つめ返されることはなく、では、誰が自分を見つめるのかというと、それは目を閉じた自分自身なのである。
「眠る」という、当たり前だけど見過ごされがちな行為を通して、生きることについて考えることができると良いなぁと思うわけです。そのヒントが、ここにはある気がします。
楢橋朝子さんという写真家が、自ら海や湖に入って、水面ギリギリから撮影した写真に目が釘付けになりました。「眠り」のイメージとは遠いかもしれないけど、どこか幻想的な非日常の雰囲気がそのイメージを誘発させるのかもしれません。