ツイッターに「#先生死ぬかも」はトレンドにのってほしくなかった。
先日ツイッターのトレンドに「#先生死ぬかも」という文字が。最近は、教育学者の先生や、現職の教員が実名を出して訴えてくださっているおかげで、「教員の過労」が世間の注目をあびるようになった。
教育の世界というのはなかなか変わることができないので、世論を大きく動かすことは大切である。そのためにも、名前を出して、声をあげてくださる現場の方がいることは感謝の気持ちでいっぱいである。私は現職教員であるが、とてもじゃないが本名をさらけ出して声を上げる勇気はまだない。
日本の教員の労働時間は世界に比べても長く、本当に業務量は多いと痛感している。また業務内容の種類も多岐にわたる。教員の労働環境の改善は日本の教育をよりよくするためには必要なことである。
「#先生死ぬかも」のハッシュタグを広めようとしてくださった方々も日本の教育をよりよくするためにこのハッシュタグを広げたのだろう。その日本の教育をよりよくしたいという志は同じなのだが、私はこのようなことがトレンドになればなるほど、教員を志す人は減るだろうし、「教員」という仕事の悪い面ばかりに注目があつまるのではないだろうかと不安を覚えたのだ。そして、教員志願者が減る→現場の人で不足or教員の質の低下→現場の業務量が増えるという悪循環が生まれるのではないかと思ったのだ。
教員志願者の減少の原因は、一向に教員の労働環境の改善に向き合わない行政に責任があるのは明白であるが、と同時に、現場の教員が自らの手で労働環境の改善を獲得するための動きが弱いのも原因であると思う。そもそも教員は労働組合の加入率は低い。ということは、「労働環境が悪い」と考えている教員は少ないということの表れになるのではないだろうか。むしろ今の労働環境や条件で満足しているから教員は組合に加入する人が少ないと世間や行政に思われても仕方ないと思う。そういう意味では自らの手で労働環境を変えようというよりは、誰か変えてくれないかなーと何もせず期待している人は多いのではないだろうか。
現場の教員は教員で、教員の業務量を減らすことは可能なのか。可能ならばどのようにすればいいと思うのか。これを本気で対話し、思考し、実行に移していくことが大切だと思う。
部活動、身だしなみ指導、学級担任制、評価。これらが本当に必要なのか。本質的なところを議論し見直せば業務は減らせるかもしれないと私は考えている。私個人的な意見では、これらは教員の業務として不必要であると考えているが、必要だと考えている教員と議論しお互いが納得できる制度や指導方針に到達できれば業務の見直しができるのではないかと考える。
「学校は何のためにあるのか」「本当によい教育とは何か」というような本質的な問いを教員同士で対話をしていけば、よりよい教育現場にもなるだろうし、それが業務の改善にもつながると思うのだ。
私は、日本の学校は何でも引き受けすぎていると思うし、そのせいで本来一番大切にしなければいけない授業研究に教員が時間を割けないのが現状であると考える。
だから、「#先生死ぬかも」ではなくて「#先生に授業研究の時間を」とか「#先生の業務を減らそう」とか「#当たり前を見直そう」とか前向きな呼びかけはどうだろうか。あんまりいい対案のハッシュタグがでてこないなと我ながら思うけど、とにかく現場の先生が取り組めるようなハッシュタグやこれだったら教員になりたいなと思える人が増えるような世の中の動きを現場の教員も作っていかないといけないと思う。