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巡禮セレクション 8

水の女

2016年03月26日(土)

民俗学者として知られる折口信夫の著作「水の女」は、神道を研究される方々の中でも度々参考にされてきたと思います。

僕も、祓の女神を追及するうえで大変参考になるものと考えています。
折口信夫の書かれた内容がどこまで正しいのか、僕は確認する術を持ちませんが、そこに示された古代の思想をある程度正しいものだという前提で、今、ここで考察を進めている瀬織津姫創作の起源の根拠として記録しておきたいと思います。


全文は、こちらの青空文庫で拝読していただくのが一番です。
なので、ここでは、特に僕の注意を引く箇所をかいつまんで記録しておきます。

水の女とは、折口氏の造語であり、古代にそう呼ばれた巫女が存在したわけではありません。
折口氏は、「水の女」の中で、「みぬま」という語に注目され重要キーワードとして考察を進めています。

「みぬま」、「みつは」は、同じ語でこの語が禊ぎに関連したものである。
出雲では、水沼間・水沼・弥努波(または、婆)と出雲文献に見られ、みぬまを神名として認識していた風である。
「其津の水沼於而、御身沐浴ぎ坐しき。」
出雲風土記の仁多郡の一章、三津の郷のくだりにこう記されていると「水の女」に紹介されていますが、現代語訳だと「水が湧き出た」と訳され神名だとされていません。
しかし、ここでアジスキタカヒコネは禊をするわけで水の女の関与が想像されます。
もう一つ面白いのは、前に、狭穂姫の記事で紹介した言葉を離せない息子の誉津別命と同じく、アジスキタカヒコネのこの一節は、アジスキが大人になっても泣いてばかりで言葉が話せなくなったのが、夢のお告げで話せるようになった際の話です。


次に筑紫では、
「筑後三瀦(ミヌマ)郡は、古い水沼氏の根拠地であった。この名を称えた氏は、幾流もあったようである。宗像三女神を祀った家は、その君姓の者と伝えているが、後々は混乱しているであろう。宗像神に事えるがゆえに、水沼氏を称したのもあるようである。」


丹生と壬生部
「数多かった壬生部の氏々・村々も、だんだん村の旧事を忘れていって、御封という字音に結びついてしもうた。だが早くから、職業は変化して、湯坐・湯母・乳母・飯嚼のほかのものと考えられていた。でも、乳部と宛てたのを見ても、乳母関係の名なることは察しられる。また入部と書いてみぶと訓ましているのを見れば、丹生(にふ)の女神との交渉が窺れる。あるいは「水に入る」特殊の為事と、み・にの音韻知識から、宛てたものともとれる。
 後にも言うが、丹生神とみぬま神との類似は、著しいことなのである。それに大和宮廷の伝承では、丹生神を、後入のみぬま神と習合して、みつはのめとしたらしいのを見ると、ますます湯坐・湯母の水に関した為事を持ったことも考えられる。」

「中臣が奏する寿詞にも、そうしたみふ類似の者の顕れたことは、天子の祓えなる節折りに、由来不明の中臣女の奉仕したことからも察しられる。中臣天神寿詞と、天子祓えの聖水すなわち産湯とが、古くはさらに緊密に繋っていて、それに仕えるにふ神役をした巫女であったと考えることは、見当違いではないらしい。」

水の女が、湯の神であり特に天皇の産湯と関係していることが見られます。


また、比沼山がひぬま山であること。
大変興味深い記事が書かれています。できれば本文を読んでいただくのが良いと思います。
なので、ここでは割愛しますが、重要なのは、比沼山が丹波にあることです。
丹波には、元伊勢があり外宮の神のいる地なのです。


「住吉神の名は、底と中と表とに居て、神の身を新しく活した力の三つの分化である。「つゝ」という語は、蛇(=雷)を意味する古語である。「を」は男性の義に考えられてきたようであるが、それに並べて考えられた汶売(ミヌメ)・宗像・水沼の神は実は神ではなかった。神に近い女、神として生きている神女なる巫女であったのである。海北ノ道ノ主ノ貴は、宗像三女神の総称となっているが、同じ神と考えられてきた丹波の比沼ノ神に仕える丹波ノ道ノ主ノ貴は、東山陰地方最高の巫女なる神人の家のかばねであった。」

折口氏は、水の女は神ではなく、神として生きている神女、巫女であると述べています。
そして、丹波道主の家がその巫女の家であったとまで書かれています。
丹波道主の娘、ヒバス姫が垂仁天皇と結婚し、倭姫を生んでいます。


「八処女も古くは、実数は自由であった。その神女群のうち、もっとも高位にいる一人がえ(兄)で、その余はひっくるめておと(弟)と言うた。古事記はすでに「弟」の時代用語例に囚われて、矛盾を重ねている。兄に対して大あるごとく、弟に対して稚を用いて、次位の高級神女を示す風から見れば、弟にも多数と次位の一人とを使いわけたのだ。すなわち神女の、とりわけ神に近づく者を二人と定め、その中で副位のをおとと言うようになったのである。
 こうした神女が、一群として宮廷に入ったのが、丹波道主貴の家の女であった。」

つまり主巫女が兄姫(エヒメ)で副巫女が弟姫(オトヒメ)ということです。
そして、兄姫は大姫に弟姫は稚姫ということになります。
これは、もしかすると大霊留女貴と稚霊留女貴との関係でもあるのかもしれません。
とにかく、この家系が丹波道主の家だというのが興味深いです。
すなわち、旧大和王家の出身であり、言うなれば三輪山祭祀の姫巫女をルーツに持つという意味になります。

そして、水の女の本質は、ここにあります。
「神自身と見なし奉った宮廷の主の、常も用いられるはずの湯具を、古例に則る大嘗祭の時に限って、天の羽衣と申し上げる。後世は「衣」という名に拘って、上体をも掩うものとなったらしいが、古くはもっと小さきものではなかったか。ともかく禊ぎ・湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方で、その布を結び固め、神となる御躬の霊結びを奉仕する巫女があった。」

天皇の禊ぎ・湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布(天の羽衣)を解く巫女というわけです。

狭穂姫が炎の中で死のうとする時、引き留めようとする垂仁天皇は、こんなことを彼女に言った言葉は、
「あなたの結び堅めた衣の紐はだれが解くべきであるか」と。

この謎の言葉は、狭穂姫が垂仁天皇の水の女である証ではないでしょうか?
つまり、お前が死んだら、誰が兄姫の役を務めるのか?という自殺を思いとどまらせる言葉だったのだと思います。
これは、単に専属の巫女を死なせるといった意味以上に、天皇の存続問題にかかわる問題だったのかもしれません。
なぜなら、水の女の仕事は、天皇の穢れを祓い、生命と若狭というエネルギーの源でもあったわけですから。


「この沐浴の聖職に与るのは、平安前には「中臣女」の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。」
これ、今は余談ですが、後に重要になると感じますので、一応記録しておきます。

「常世から来るみづは、常の水より温いと信じられていたのであるが、ゆとなるとさらに温度を考えるようになった。ゆはもと、斎である。しかしこのままでは、語をなすに到らぬ。斎用水あるいはゆかはみづの形がだんだん縮って、ゆ一音で、斎用水を表すことができるようになった。だから、ゆは最初、禊ぎの地域を示した。斎戒沐浴をゆかはあみ(紀には、沐浴を訓む)と言うこともある。」

「天の羽衣や、みづのをひもは、湯・河に入るためにつけ易えるものではなかった。湯水の中でも、纏うたままはいる風が固定して、湯に入る時につけ易えることになった。近代民間の湯具も、これである。そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。すなわちこれと同時に神としての自在な資格を得ることになる。」

湯具を紐解く巫女は、湯の女神でもあり、ユとは本来「斎」の意で禊の場を意味していました。
湯の女神が温泉の神になるのは、ユを単純にお風呂としか認識しなかった後の世の人々の信仰なんだと思います。しかし、その起源は禊にあったものと思われます。

「常世から来るみづは、常の水より温いと信じられていたのであるが、ゆとなるとさらに温度を考えるようになった。ゆはもと、斎である。しかしこのままでは、語をなすに到らぬ。斎用水(ユカハ)あるいはゆかはみづの形がだんだん縮って、ゆ一音で、斎用水を表すことができるようになった。だから、ゆは最初、禊ぎの地域を示した」

「ゆかはの前の姿は、多くは海浜または海に通じる川の淵などにあった。村が山野に深く入ってからは、大河の枝川や、池・湖の入り込んだところなどを択んだようである。そこにゆかはだな(湯河板挙)を作って、神の嫁となる処女を、村の神女(そこに生れた者は、成女戒を受けた後は、皆この資格を得た)の中から選り出された兄処女が、このたな作りの建て物に住んで、神のおとずれを待っている。」


湯河板挙(ユカハダナ)すなわち禊処の小部屋には、兄姫(=兄処女:エオトメ)が神(=天皇)の訪れを、神御服(カムミソ)の布を作るべく機を織って待っていました。
僕は、瀬織津姫の名が、なぜ瀬折津姫でなく、滝の神なら垂水津神とも書かないのが不思議で、織の字を用いた意味がわかりませんでした。しかし、その根本には、水辺で機を織りながら待っている禊の女神だからだということで理解できました。


さらに、『日本書紀』で稚日女尊が高天原の斎服殿(いみはたどの)で神衣を織っていたとき、それを見たスサノオが馬の皮を逆剥ぎにして部屋の中に投げ込んだ。稚日女尊は驚いて機から落ち、持っていた梭(ひ)で身体を傷つけて亡くなった。それを知った天照大神は天岩戸に隠れてしまった。『古事記』では、特に名前は書かれず天の服織女(はたおりめ)が梭で女陰(ほと)を衝いて死んだとあり、同一の伝承と考えられる。というのも水の女を神格化したものと考えられます。


また、
「若い女とも言うし、処によっては婆さんだとも言う。何しろ、村から隔離せられて、年久しくいて、姥となってしもうたのもあり、若いあわれな姿を、村人の目に印したままゆかはだなに送られて行ったりしたのだから、年ぱいはいろいろに考えられてきたのである。村人の近よらぬ畏しい処だから、遠くから機の音を聞いてばかりいたものであろう。おぼろげな記憶ばかり残って、事実は夢のように消えた後では、深淵の中の機織る女になってしまう。」

瀬織津姫は、背折の姫、すなわち老婆ではないのか・・・と考えたこともありますが、その可能性もあるようです。しかし、これは真の姿ではないでしょう。
後から、いろいろなイメージが付加され、セオリの語にダブルミーニングを持たせたのかもしれません。


さて、「水の女」はもう少しだけ続きますが、僕の言いたいことを次の一節に集約してここで終えようと思います。
「これは、海岸の斎用水に棚かけわたして、神服織る兄たなばたつめ・弟たなばたつめの生活を、ややこまやかに物語っている。丹波道主貴の八処女のことを述べたところで、いはなが媛の呪咀は「水の女」としての職能を、、見せていることを言うておいた。このはなさくや媛も、古事記すさのをのよつぎを見ると、それを証明するものがある。すさのをの命の子やしまじぬみの神、大山祇神の女「名は、木花知流比売」に婚うたとある。この系統は皆水に関係ある神ばかりである。だから、このはなちるひめも、さくやひめとほとんどおなじ性格の神女で、禊ぎに深い因縁のあることを示しているのだと思う。」

僕は、瀬織津姫のモデルは、三輪山の後に天照大神として伊勢で祀られることになった日の女神に仕える旧大和王家(磯城家、登美家)の姫巫女だと考えています。
その初代は、事代主命の娘姫踏鞴五十鈴に始まり、最後は垂仁天皇と呼ばれるイクメ大王に滅ぼされた旧大和王国の第10代大和王の彦坐王の娘狭穂姫だと思います。

その血筋は、かろうじて丹波において狭穂姫の腹違いの兄弟である第11代大和王である丹波道主の娘に引き継がれヒバス姫そしてその娘の倭姫に引き継がれたのだと思います。

そして、神話化された登場神に木花開耶姫や木花知流比売がいること。これは狭穂姫祭祀の隠れ蓑に利用されたと僕は考えたことを以前の日記に書きました。

どうやら僕の考察は折口氏の水の女により補強されたのではないか・・・と感じています。

彼女らの仕事は天皇の若返りという、穢れを祓うことによる生じる生命エネルギーを司ることだったと思います。
これが神格化して瀬織津姫という禊の女神が創作されたのだと思うのですが、その理由は今の処、白村江の戦に大敗し天智天皇最大の危機に陥った、天皇の生命力を蘇らせるための措置だったのだと考えています。

ゆえに、祓戸の神々は、日本の最強の地神を結集して作られた神々だと思います。
そのモデルはこれから見ていこうと思います。


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