#18 私たちが”人間”ではなくなる日に、お金はなくなるかもしれない。
「新しい時代のお金の教科書」が1話無料で読めるマガジン。前回は「システムや現実と真正面から向き合い、そのリアリティの葛藤の中でリスクをとり、なんとか試行錯誤しながら新しい世界を創る。」という話でした。
今回は、お金がなくなる日についてです。編集後記は、「信用主義経済では、”関係”が主体になる」について見ていきます。
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いよいよ連載も最後が近づいてきました。今回はこれまでの話を踏まえて私達がこれからどうやってお金と付き合っていけばよいのか、あるいはもっと大きな目線からどういう指針で生きてゆけばいいのか、についてまとめましょう。
お金のなくなる日がやってくる?
お金は人間にとって不可欠な発明だった、とこの連載の最初に書きました。人間は、「個性」と「社会性」を軸として、分業と交換を通して発展してきました。それが生物としての生き残り戦略だと述べました。
そして人類にとって分業のメディアとしてお金は最大の発明品でした。
前々回では20世紀までのお金でモノを流通させていた時代から、社会的欲求であるコトを満たす方法として時間を通貨として用いる時間経済を取り上げました。そしてお金でなく直接的な信用で価値をやりとりする記帳主義経済もやってきます。最後に信用を使って信用を得る信用主義経済の到来も示唆しました。
ではもう一度、そのような人類の本質に立ちかえって考えてみた場合、本当にお金がなくなることはあるのでしょうか?
「お金のなくなる日」とは、お金を一切使わない、信用を持って信用(価値)を作るという新しい経済システムです。経済とは経世済民の略であり、単にお金を増やすことではありません。ですからお金がなくなることと経済がなくなることは同じことではありません。
「いずれお金はなくなるよ」、と私が人々に言うとビットコインですか? とよく聞かれるのですがそうではありません。それはお金が電子上に溶けこんだ世界に過ぎません。本当にお金のなくなった世界はお金がないにもかかわらず、価値が生まれそれが循環している経済システムのことなのです。
今回は、まず、お金がなくなった経済、つまり信用主義経済で起こることを、第一章で取り上げた「人間とは何か?」という根源的な問いからあらためて紐解いてみたいと思います。人間について理解した上で、これからの世界でみなさんがどのように「お金」とかかわっていくべきか、一緒に考えてみましょう。
人間とは何か? をあらためて問う
信用主義経済における私達は誤解を恐れずに言えば「人間をやめる」必要があります。やめるというのは確かに語弊があります。それは、あなたや私が人間以上の存在になるということです。
今、あなたは自分自身を一体何であると考えていますか? 名前のついた個人でしょうか? それとも人間(人類)でしょうか? あるいは人間以上のもの(例えば意識)でしょうか? あなたのアイデンティティ(自分がなにものであるか? という認識)はそのどこにあるでしょうか? この風変わりな質問がお金の未来を切り開く最後の問いです。
AIの隆盛やそれがもたらすシンギュラリティの世界で、「人間の知能がAIに追い越される未来は近い」という予測がなされ、「そんな中で人間が担うべき役割とは何か」そしてそもそも、「人間とは何なのか」というのが重要なテーマになっています。
私がこの「人間とは何か?」という問いを投げかけられた際にはこう答えます。「人間とは、情報に吸着した意識の集合体」だと。
情報とは、「記憶」、「肉体」、それから「知識」の三つです。「記憶」は過去、「肉体」は現在、「知識」は未来にあたります。この三つの情報に対して意識が吸着していった結果、形成されているのが私達、人間(個人)であるというのが私の見解です。これは第一章で述べた生物種としての人間とは違う捉え方です。
記憶・肉体・知識様々な情報の中で自分の意識が特に強く吸着している部分は人それぞれ違います。そこに個性が生まれます。例えば多くの人は、過去の記憶に意識が吸着して囚われていますし、アスリートのように肉体の細かい情報に意識が吸着している場合もあります。かつて武井壮さんがミリ単位で身体をコントロールできると言っていましたが、そのような個性もあります。
知識ばかりに意識が向いている場合もあります。あなたはどのような情報にどれくらいの意識を吸着させているでしょうか? それがあなたという人間の個性を形作っています。個性とはすなわち情報と意識の吸着パターンにすぎないのです。だから私は生まれながらの個性というものを認めません。それは偏見にすぎないとさえ思っています。
歳をとると、時が経つのがどんどん早くなるといわれていますが当然です。なぜなら普通の人は、記憶(過去)という情報に対して意識が吸着し使われていってしまうからです。10歳が11歳になるのは非常に長く感じますが、40歳が41歳になるのは一瞬です。
40歳という過去の情報に対して意識がすでに記憶という形で使われているからです。割り算で考えると簡単ですが、10/11は約90%で10%の残容量がありますが、40/41は約98%で残りの容量は2%しかありません。こうしたわけで歳をとると新しい一年に対して割かれる意識が少ないわけです。このように考えると、ほとんどの人は過去に意識が割かれ、過去のトラウマや習慣に囚われるのはやむを得ません。
人間(個体)とは「意識が吸着した情報の集合体」、まずはこの点をおさえて、その上で、お金がなくなる、ということの意味を考えてみます。それは、個体がなくなる、ということです。そして意識が何ものにも吸着しなくなっている状態、つまり純粋な意識体に私達のアイデンティティが移っているということです。
その世界では分割した個人は存在しません。純粋な意識体である私達はなにもかも誰のものでもなく分かち合い、創造しあっています。その世界では個人を分割するお金というメディアはいらなくなるのです。もちろん互いをあらためて承認し合うような手間も必要ありません。なぜなら一体だからです。お金は人々の様々な摩擦を解消してきました。しかし最後の摩擦はお金そのものなのです。だから私達は最後にお金そのものを駆逐してゆくでしょう。
そんなことが可能でしょうか? 十分に可能です。例えば家族の中ではお金でやり取りはしません。それは共同体という意識を共有した集団が家族だからです。そこには自他の差がありません。家族の交流はときには個体としては面倒な部分もありますが、元来、心地よいものです。
お金を使わない世界は心地よいということはみんなが体験的に知っていることです。その事実は、私達は個体でなく、純粋な意識体として存在することが十分にできると直観的にわかっていることを示しているのではないでしょうか? お金がなくなる日、それは私達が一つになりきる世界のことなのです。
その世界には取引も契約も記帳も信用も承認も貧富も僻みもない。その世界が一番面倒がないのではないでしょうか? さて、みなさんはお金のない世界、想像できるでしょうか? お金こそが人間というものを頑強に規定しており、しかしながら私達はある意味で人間以上の意識的存在でありうるということを認めたならば、お金はきっと世界から消えてゆくでしょう。しかしこの話はここまでにしておきます。(お金のなくなる日、それは私の夢でもあります)
(本文:山口揚平「新しい時代のお金の教科書」)
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<編集後記>
今回のメッセージは「信用主義経済に到達するためには、あなたや私が人間以上の存在になる必要がある」でした。
今回もここまでお読みいただきありがとうございます!
編集秘話では「信用主義経済では、”関係”が主体になる、ってどういうこと?」についてお話ししますね。
さて、山口揚平の夢である「お金のない世界」。それはどんな世界なのでしょうか?
「関係こそが主体である。」という考え方は、分人主義という考え方にも近いように思えますが、似て非なるものです。
分人主義とは、一人の人間には、色々な顔があるる、つまり複数の分人を抱えているという考え方のこと。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のこと指します。(『私とは何か---「個人」から「分人」へ』著者:平野啓一郎)
分人とは、個を主体として様々な顔を持つという考え方ですが、山口は関係こそが主体であると考えます。それはどのようにもたらされるのか?と言うと、ブロックチェーンテクノロジーと大きな関係があるのです。
空間を拡張するインターネットから、時間を刻むブロックチェーンへと技術は進化すると、それに応じて、重視される価値も変化していきます。
洗練された空間や世界の中心都市に人が集うのも、近藤麻理恵の片付けが流行るのも、人に功徳を施す教えが絶えないのも、それら一般的に自分とみなされているものの「周辺」こそが、”本当の自分”であり、それら本当の自分を大事にすることは当然であるという理由に他なりません。片付けによって心がときめくのは、それ(部屋)が自己だからであり、当然の結果です。
脳神経科学や量子力学的な文脈からこの世界の多層次元性の解明が進むなかで、いずれ科学は「本当の自分」を明確な形で我々の前につきつけるだろう。それに対するガリレオ・ガリレイの教会裁判の悲劇と同様の試練を経て、人類はこの普遍的自己の存在を認めざるを得なくなることは想像に難くない。
だがしかし、我々個人がガリレオの登場を待つ必要はない。天動説を誰も疑わないその時代において、紀元前3世紀からアリスタルコスは、すでに天体の観察から地動説を見抜いていた。一体、太陽が回っているのか?地球が回っているのか?どちらを信じるかを決めるのは現代において個々人の知性と精神にかかっているのである。(2015年 山口揚平)
「関係こそが、人間の正体である。」と言う山口の主張。皆さんはどう思いますか?
(編集後記:大西芽衣)
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