【数理小説(14)】 『小宇宙からの脱出1 宇宙の熱終焉』
縦・横・高さが2:1:1の直方体の部屋に、二人の女と、一人の男がいた。
「あれえ?ここはどこだ?」
黒髪に少し寝癖をつけたままそう言ったのは、男である。服の胸のところにつけられたネームプレートには、『δ』と書かれていた。
「あ、起きましたね」
チェックのシャツを着て眼鏡をかけた青い髪の若い女性が言った。彼女のネームプレートには『α』と書かれていた。
「その言いかただと、あんたもわけが判らないの?」
タンクトップを着た筋肉質で長身の赤い短髪の女性が言った。ネームプレートに『β』と書かれている。
三人の年齢はみな、20代前半といったところだろう。互いに顔なじみではない。
「あの、あなたたちは何者ですか?」δが尋ねる。
「わたしはβでこの子はα。それ以上は判らないな……」
だが、δは納得しないようであった。
「それ以上は判らないって、どういうことですか?」
αとβは顔を見合わせた。
「じゃあおまえには記憶があるのか?δじゃない名前は思い出せるか?」
「え……それは……」δは何かを思い出そうとした。だが、なにひとつ思い出せない。
「信じられない。記憶喪失になったのか?」
「みんな記憶がないんですね」αが言った。
「たぶんな。でもこんな状況だ。互いの言っていることだって信用できるかわからない」
αはそれを聞いて言った。
「あたしは本当ですよ。記憶がありません」
「まあ、そうだとして、どうしてわたしたちがこんなソリッドシチュエーションに放り込まれることになったか、だ。悪いことをしたのか、悪いヤツに捕まったか……」
δはまだこの状況を信じられなかった。
「あの、じゃあ、僕が寝ている間にも、なにか変わったことは……」
「はい。私も目覚めたらここにいて、お二人が寝ていて、βさんがすぐに起きて……」
「ここにあるものをちょっとだけ調べたな」
「ここにあるもの……」
δは辺りを見回した。長四角の部屋。床と壁と天井は黒い金属で、それぞれの中央に丸い扉のようなものがついている。角のひとつに簡単なしきりがある。扇風機があり、そのそばに四角い物体が落ちていた。また、冷蔵庫もあり、空調機のような、空気を換気する箱のような機械が床に置かれていた。あとはロープとはしごがある。
「あのお、トイレはどこでしょうか……」
「はぁ。悩みの一つはそれだよ。その角にある簡単なしきりの奥がそうだ」
δはβの示すほうを見た。壁から出た板の陰には便座があった。「横からじゃ丸見えじゃないですか。まるで刑務所だ」そう言いながらδはトイレを使用した。
「はああ。なんで男といっしょなんだ。とにかく、なすべきことはひとつだな。こんなところでいつまでも待っていてもろくなことはない。壁をぶちこわしてでも脱出する。それだけだ」βが言った。
「あるいは謎を解けば脱出できるっていうパターンかもしれませんよ」αはそう考えた。
「待っていたら、だれかが説明しに来ませんかねえ」δがトイレに入ったまま言った。
βはトイレの反対側にあるほうの壁に近寄った。
「そうか、このくぼみの中にあるのがネジだ。これを回すと……なんだ。簡単に開きそう……だ……えらい面倒なネジだな。でもはずせたよ。なんだ。監禁でもなんでもないじゃないか」
だが、βが軽口を叩いて扉を押したとき、ちょうど反対側の壁の扉が音を立てたのである。
「だれか来ます!」
「よくわからんが、急いで逃げよう!」
βが丸い扉を向こう側に押して開け、急いで飛び込もうとし、一度振り返ったとき、彼女は信じられない光景を見た。
反対の扉から出て来て、向こうを振り返る自分の姿があったのだ。その向こうは部屋になっていて、その奥の壁にも同じ形で自分がいた。それが無限に続く。さらにβは前を見た。その扉の向こうも部屋であった。それも自分たちがいるのと同じ間取りであり、左を見るとちょうどトイレでお尻を拭いているαと顔が合ってしまった。
「ちょっと、βさん、エッチ」
「見たくないものを見たのはこっちじゃあい!」
「そんなこと言っている場合じゃありませんよ。これはいったい……」
αが青ざめていた。確かにそうだ。壁の扉に頭だけ突っ込んでいるβ。そのβの頭が、反対側の扉から出てきたのである。横から見れば、まるで人体切断のマジックである。
「どう考えたらいいんだ……」
唖然としてβが自問する間、あわててズボンを吐いたばかりのδが扉を覗き込んだ。
「無限に部屋があり、無限にβがいるってことか!つまりこの扉は、パラレルワールドにつながっているってことだ!」
だがβはその意見に納得しなかった。
「それで全員が同じ動きをするっていうのか?ないよ、そんなこと。そうじゃなくて、あっちとこっちがつながっているんだよ」
そう言われて、δは扉の奥に向かって手を振ってみた。その奥の自分の後ろ姿も、さらにその先も、扉の奥に手を同時に振っている。まるで合わせ鏡のようだ。
「時空が歪んでいるのか。なんとなく予想できるが、そっちの扉はどうだ」
そう言われてαは、まだ開いていない長いほうの壁の二つの扉の、ネジで止まっているほうの一方を開けた。するとやはり、その正面の扉が開いた。
「つながっています」
「あとは床と天井かあ。これもそうすると……」
そう言ってδは床の扉を開けた。やはり天井の扉が開いた。下にはさらに下を覗くδの姿が見える。
「どうあがいても脱出のしようがないな。ぶち壊すとかいうレベルじゃない……」
βは青くなった。
「だめだ。見ていると気味が悪くなってくる。一旦閉めよう」
扉を止めていたネジはそのままにして、6面すべての、といっても実際には3枚の扉をすべて閉めた。
「それにしても、暑くなってきましたね」δが言った。
「それもそうだな。とりあえず、扇風機をつけるか」
「コンセントがはずしてあるけれど、これ、バッテリーみたいだね。入れるね」
σはそう言ってバッテリーと思われる四角い物体にコンセントを差し込んだ。扇風機は回りだした。
「はあ、涼しい」
「あのお、お腹も空いたんですけれど」
δがそう言うと、βは腹を立てた。
「おい、状況を把握して、打開しようとか考えないのか?お前は」
「いやあ……そのお……僕はもともと働いてもいなくて、家にこもっていたタイプだと思うんですよ、きっと」
「ああ?お前、使えねえな!なんか腹たつわ」βがδの胸ぐらをつかんだ。
「あわわわ!」
「βさん、あんまりδくんをいじめないほうが……」
「わかったよ。たしかにあたしもお腹が減った。そこに冷蔵庫があるから。何かあるなら食べるとするか」
「じゃあ、これもコンセントを入れておきましょう」δは、弱々しい声で言った。
「どれどれ?あ、ドーナツがある」
σがためらいもなく食べ、αが次に食べた。βは毒でもないかと気にしていたが、結局それを口にした。ドーナツはずいぶんと甘かった。
「なんだか、さっきより暑いですね」
「この箱みたいな機械からは空気が出ているけれど、冷房ではないんだね」
「じゃあ扉を開けましょうか」
δはなにげなく一方の壁の丸い扉を開けた。βはあきれかえった。
「バカかお前は。開けても外じゃないんだぞ。空気の入れ替えになるか」
「ああ、そうか。じゃあこの空調を切りましょうか。暖房になっているんですよ、きっと」
「待って。それって、酸素を作っているんじゃないの?」
「あ、そうか!きっとそうだ」
「へえ。酸素を吸うなんて、スポーツマンみたいだな」
「そうじゃなくて。空間はこの部屋がすべてなんだから、酸素を作らないと、いつかなくなっちゃうでしょ?」
「ああ、そうか」
「ってことは、これは思ったよりヤバい状況だ。トイレがどうこうの問題じゃない……」
「この小さなバッテリーも永久に電気は供給できないはずです」
「食事もなくなっちゃう!」
「食事どころじゃない。なにより暑い。どうなっているんだ!」
「ああ、なんてうかつだったんでしょう。閉じた系なんです。今すぐ冷蔵庫も、扇風機も止めて」
「えーっ!暑いじゃないですか」
「そんなこと言っている場合じゃないんです。これらのせいで、もっと暑くなるんですよ」
「またまたまた。ご冗談を」
「そうか、しまった。言いたいことはわかったぞ、α。よし、切った。エントロピーの増大だな?」
「そういうことです」
「そういうことですか」
「判っているのか?δ」
「もちろん判ってないことが判っています」
βはため息をついた。αが説明する。
「この空間より外はありません。それが意味することは、物質もエネルギーも何もかも、この中から出ては行かないし、外からも入って来ないということです。だから酸素も消費されるともうなくなってしまいます。さらには熱も、熱力学の第二法則から、温度が下がることはありません」
「だって冷蔵庫があるでしょ?あれ、冷たいよ」
「冷蔵庫はエネルギーを使って、その中の温度を外に逃がしているんです。ですから、全体としては、温度が上がってしまうんですよ」
「えーっ!。それじゃあもうつけるわけにはいかないんだ。じゃあ、ずっとこの温度ってこと?」
「いえ、違います。私たちには体温があります。つまり発熱しています。ですから、36・5度まで、部屋の温度は上がって行くでしょう」
「そりゃ、いくらなんでも上がり過ぎだ!」
「やっぱり脱出しなくちゃー!」
〈つづく〉
Ver 1.0 2021/2/25
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