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ありがたや、羊
羊毛にはまちがいなくお世話になっているにもかかわらず、羊飼いとはまったく無縁なのである。そんな私が『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』(ジェイムズ・リーバンクス著, 濱野大道訳、早川書房)を読んだ。星野道夫の本といい、この本といい、妻には「あなたにはおよそ似つかわしくないものを読んでいる」と言われてしまった。
たしかに退屈そうである。だがイギリスではベストセラー入りしているというではないか。だから読む。
どこかでだれかが、羊飼いの仕事をしている。仕事といってもタウンワークで見つけて応募してやるようなものではなく、もはやそれは生きかたである。特定の土地で羊とともに暮らすということである。だからこの世の中は、たとえば羊飼いという属性の人たちがいることによって成り立っている。羊飼いが生み出すものの最終形態は、われわれが着る衣服である。
羊を育てる、毛を刈る、糸をつむぐ、服を編む、それが流通する。私たちはその最後の形だけをクリックひとつで入手する。衣類に限らず、製品や食事がみんなそうだ。近々家までもがそんな風に手軽に手に入れることになりそうだ。産物が作られる途中の過程を直感的に感じることは少なくなっていく。それがなにか、優しさを失うことに通じるようで怖い。
だからせめて読書という安楽な体験によってでも、そういったことに関心を向けることは大事かもしれない、と思う。
さて、私も酪農を営んでいるお宅に、通訳のボランティアをするため一月ほど世話になった経験がある。そこでは自給自足していて、そういえば羊毛から糸を紡ぐ道具もあったのを覚えている。紡ぐ様子までは見る機会がなかったが。
通訳だけをしていればよいという空気ではなく、行って真っ先にさせられたのは、地面に埋まっている土管を掘り出す作業であった。野外での労働から家事にいたるまで、なんでもお手伝いするのがあたりまえな空気であった。
農業地帯は自然そのものではないが、都会にいる私にとっては土があり草木が茂る土地ということはいっしょである。口先と情報のやり取りだけで生きる世界とは大違いで、生活とは肉体を使うことであった。私はそういうものに慣れていないので、とにかく自分ができる仕事を見つけないと居たたまれぬ思いをすることになる。
著者は湖水地方で羊飼いとして暮らしているが、これもたいへんな重労働のようだ。
たとえば夏に羊の毛を刈るとき、毎年一度か二度、バリカンで怪我をするのだという。傷が深ければ羊毛袋を縫う太い針で自分で皮膚を縫合してしまうとか。小さな傷ならばクモの巣を集めて押し当て血を止めるという。平然とか書かれているが、都会の一家での流血は大ごとである。いや、クモでも大騒動である。
この差はなんであろう。冒頭に出てくる教師たちは羊飼いのことを馬鹿にして、もっとよい職に就くよう生徒たちに説いた。土とともに生きるものとコンクリートの上に生きるものとの間には、理解し合えぬ壁がある。
そこに颯爽とした風を通したのが、たとえばワーズワースなのだろう。そのロマンチシズムに過ぎた詩人に反発を覚えながら、著者はオクスフォード大学に進学したのち、やがて生まれた土地でファーマーとなる。
「私の靴は汚れるべきなのだ」
これは彼がユネスコで働いていたときに中国で述べた言葉であり、やや文脈は異なるかもしれないが、象徴的である。靴の汚れない土地しかなく、靴を汚さない人しかいないのは、なにかがまちがっている。
たとえば羊飼いになるなと言った教師たちのような都会人に欠けていたものは、教養であったのではないか。土や生き物の教養を持つ著者はさらに学問の言葉をも身につけ、かつて嫌ったワーズワースの役割を持ってこの本を世にもたらしてくれたようだ。
さてコンクリート大好き人間の私も、妻のひと声で引越しをした。家は巨大な森林の真ん前に建つ。以前よりはかなり自然寄りの生活になったと言えるだろう。さっそくクモが出て、クモ嫌いの妻がギャーギャーわめく事態となった。
ま、いいか。田舎にだってクモ嫌いはいるだろうし。たぶん。