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【小説】 素衣の恐怖劇

 こちらは私のYouTube動画用のnote原稿の、ロングバージョンです。


素衣の恐怖劇


 一度そこを通り過ぎるんだよ。
 きょろきょろ見回して、それから引き返して、前を覗き込んで、また行くの。
 で、なんか手に取って、さりげなく周りをうかがって、離れて、また同じところに近づいて。
 で、結局彼女はさあ――

*     *     *

 近所にある大きな寺には、休日になると人がごった返したが、平日となると閑散としている。大きな欅の木があり、鳥や虫が飛び回るので、私は写真を撮りにたまにそこに出かける。
 その日は社殿の前の階段に、二人の若い男が座ってコンビニのそばを食べていた。麺はほぐれないし、めんつゆは多すぎて持て余しがちで、屋外で食べるにはずいぶんと不適切なものを選んだものだと他人事ながら思っていたところ、一方の男の言葉が耳にとまった。聞き耳を立てざるをえないほど、私の心をざわつかせたのだ。
 「……中野ブロードウェイの裏通りあるでしょ、ゲーセンの裏っつーか」
 「二つあるけどな。まあいいよ。それでそれで?」
 「それでさ、ずっとそのおんなじ動きしてんの。だれも相手もいないのにさ。パフォーマンスかと思っちゃったけど、どう見てもパフォーマンスなわけないんだよね」
 男はその同じ動き、というのを、箸を持った手でジェスチャーを交えながら説明し、笑った。

 ――一度そこを通り過ぎるんだよ。
きょろきょろ見回して、それから引き返して、前を覗き込んで、また行くの。
 で、なんか手に取って、さりげなく周りをうかがって、離れて、また同じところに近づいて――

 下卑た笑いが私なんだか癪であった。男はそこまで言うと一息をついて、団子のようになっているそばを食んだ。もう一人の男は「見に行きてえな。また来るかな」と言った。
 私は話の前段を聞き逃しており、詳細をひどく知りたくなった。だが話しかけて尋ねても、奇妙に思われるに違いなかった。写真を撮るふりをしてこっそり話を聞いていた、というのもいただけないし、私が彼らの態度を好ましく思っていないことも顔に出てしまうだろう。しばらくの逡巡を経て私は尋ねるのをあきらめ、彼らが詳細を話すことをただ願いつづけた。

 で、結局彼女はさあ――

 そこで話を聞かされていたほうの男の携帯が鳴った。それに合わせて話していた男も自分のスマートフォンを目にした。時刻を確認したようだ。無理だ。もう話はつづかないだろう。そう思っていると、男は派手な唐草ベースの手ぬぐいを頭に巻き始め、立ち上がった。もう一人の男も電話を短く終えるなり缶コーヒーを飲み干して、食べたものを片付け始めた。
 「彼女」と言った。それだけでも私は確信を深めていた。その女性を、私は見たことがあるかもしれなかった。

*     *     *

 二人の若い女。向かい合って座っている。お茶をしながら。すぐ近くの席には、男がおり、眼鏡をかけ本をめくっている。
 「ほんと、すげえ変だった。でさあ、ずっとおんなじところでおんなじ動きすんだよ」
 「あたしのおじいちゃん、そうだったよ。なんか昔機械工やっててさあ。そのときの動きすんの」
 「ん。で、その女だけど、いつまでそこにいたかは判んないんだよ。だってアユがさあ、部活行く前でしょ?だから六時前だから、まだ日も登ってないんだよ?わかる?きっと夜中からさ、何千回とかやっていたかもしんないんだよ」
 「徘徊みたいだね」
 「ハイカイってなんだよ。で、帰りはもういなかったよ。あれ、なんか気になる動きだったなあ。行ったり来たりしながらさ、なんか取ろうとすんの」
 「ふーん、なんだろうね」
 「あれはさあ、きっとなんかだね。なんつーか、きっと報われないんだよ。なんかそういう体験してんじゃないの?戦争とかで」
 「え?そんなにおばあさんなの?」
 「いや、そんなには歳じゃない。いや、歳なのかな。年齢は不詳。ああ、でも肌はそんなに悪くなかったなあ」
 「アユ、なんかジロジロ見てんじゃん」
 「見るだろよ。オメーだってきっとみるよ」
 「見ないよ」
 「とにかくさあ、あれはやっぱ通報されんだろうな。警察官とかに」
 「通報するのは住民で、連行するのが警察」
 「いいんだって。とにかく、びっくりするって。なんかあの執念っつうの?すごいんだって」
 「そ」
 「よし、行こ」
 二人はトレイを持って立ち上がる。
 一拍おいて、男が本を閉じ眼鏡を外す。目をつぶって目頭を手で押さえてから再び眼鏡をかけ、立ち上がる。

*     *     *

 遠い記憶を思い出す。その子の名前は忘れてしまった。名簿でも見れば思い出せるかもしれない。すっかり忘れたわけではないはずだ。
 彼女はさえない子だった。何かオタクな趣味を持っていた。
 『絵樹』という中野ブロードウェイにある店によく行く、ということを後で知った。
 その彼女が、万引きをするのを見たことがある。
 あれは、きっとやらされていたのだ。別の女の子に。
 いじめだろう。
 自分はその光景をなぜか見ていた。偶然家の近くの通りで見かけて。それでそのままついて行ってしまった。
 学年が違ったから、自分のことは多分知りもしない。
 とてもためらっていた。そのときの動きを思い出す。
 何度も商品を手に取り、じっくり見て、また、置く。同じ場所を行ったりきたりする。それから、手に取り、カバンに入れる。
 それからあっけなく彼女は捕まり、奥に連れて行かれる。
 見ていた女は逃げ去る。自分はしばらくそのままそこにいた。彼女が心配だった。
 やがて彼女が出てくる。泣きそうな顔をしている。深刻な顔。やがて駆け足で外に行く。見失う。 
 なにがあったのか、気になっていた。


 彼女は一度そこを通り過ぎた。見回して、また同じところに近づいてそれを手にとって、見て、裏返して見て、また表を見て置いた。たたずんでからまたその場を後にした。
 少し猫背の彼女である。

 彼女がそれを手に取ろうとしたときに、男が横から現れて彼女の目の前にあるそれを取り、持って行く。「千六百二十円です」という店員の声がし、男はためらいもなく支払いをし、品を手に外に出る。彼女はその姿を見る。数秒たたずむ。その場を後にする。
 猫背の彼女は、力ない目をしている。鼻息は少し、荒かった。

 目に力が刺す。顔は固まっている。鬼のように病んだ色だ。足にも意志がみなぎる。
 そこだ。まっすぐにたどりつくと、息を吸って吐き、胸郭が縮む。それを手に取る。歩く。歩く。
 「君――」
 あっけなく、その時間は終わる。


 彼女がその男の後ろから近づく。男からは完全に死角だ。男は気づいてくれない。ただ立っている。彼女は息を吸い込んだ。だがそれは言葉に変わることなく吐く息となった。
 立ち尽くしてみる。男の背中を見つめる。男に動作が生じる。男はポケットから掴んだものを耳にあて、左腕に目をやる。
「もうついてるけど」
 彼はそう言った。そのとき一瞬あたりを見回した。彼女はすくんだ。男はまったく気にせず、また前を向いて話を続けた。
 彼女は足早にそこを去った。

 彼女が若い男に後ろから近寄り、また息を吸い込んだ。若い男は振り向いた。彼女は驚いて、そこから逃げ出した。

 男が落ち着きなく立っている。彼はすぐに、背後から近寄りかけた彼女を見つけた。そのときはすでに至近距離で、なおかつ彼女は彼のほうに動いていた。彼女は息を飲んで立ち止まり、「すいません」と言った。男は「ああ」と返した。彼女は立ち尽くした。
 「お茶でもしようか」
 「はい……」
 彼女は素直にそう言った。すると男は前言を翻し、「いや、お茶はいいか」と言って彼女の手をつかんだ。
 男は彼女を連れ、人と人との間を急いてくぐり抜けていった。
 男の足取りは力強く、彼女は小さな歩幅で度々つっかかりながら彼に引かれていった。 
 二人はすっとその場から消えた。


 彼女は着衣を直しながら、そこに近づく。一度振り返る。男の鼻歌が聞こえる。彼女はじっとする。息を吸い込んで、そおっとそれを抜き取る。くしゃくしゃにしてポケットにしまいこむ。
 「おい、なにしてる!」
 背後から男の声がする。
 彼女は逃げ出す。開かない。


「おい、ひでえな」
 若い連中は人だかりを作った。ひどいと言いながら顔が笑っていて、笑っていながら顔をしかめている。
「はいはいはい、よけて。あ、でも行かないでよ。第一発見者は誰?」
 彼女はそこにいない。


 彼女はそこを通り過ぎた。
 彼女はまたそこを通り過ぎた。
 彼女はまたそこを通り過ぎて、そこには目もくれなかった。

*     *     *

 あたしが体を売るようになったのは、初めてやった万引きがばれたときです。

 あたしは地味な、目立たない、とくになにをしているというわけでもない普通の高校生でした。私立高校の、ただ入試科目が少なくて偏差値が低いというだけで英語の授業が普通科より多いわけでもみんな英語ができるわけでもない「英文科」というところに入り、普通の成績……よりは少しだけ低いくらいの成績を取り、だれに迷惑をかけるでもなく、遅刻も毎日はせず、帰りは途中にあるアニメグッズ専門店『絵樹』に寄るのが楽しみで、それから家に帰って机の前に座って勉強するつもりでマンガを読んで、そのうちに晩御飯になってテレビ観て寝るっていう、それだけの女の子です。
 特別な仲良しはいませんでした。特別に仲が悪かった人もいなかったので、それはそんなに変なことではなかったと思います。
 口をきかない子というのは大勢いたわけで、そういうのはお互いに「自分はあの子に好かれていない」とか「陰で嫌っているに違いない」とは思うわけです。なんかのきっかけで同じグループになったりすると、お互いなにも悪く思っていないことに気づいて仲良くなることもあります。でも本当に嫌っていることもあります。あたしにも嫌いな子はいました。背の大きい子とかは嫌いでした。
 気の合わなそうな子は避けて過ごします。お互い、それが楽だから。無理して仲良くするのは、いいことではないのです。だれとも明るく仲良く話せるというのは、ちょっと変です。
 あたしは地味なほうのグループにいましたから、派手な人たちとの接点はありませんでした。地味な子は派手な人たちが怖いし、派手な子は地味な子が嫌いなのです。見た目が違う人たちとは一緒にはなれません。ほとんど必要最低限の関わりしかしません。

 美優子は、くらおもろい子でした。たぶんその「おもろい」のほうはだれもあまり知らなくて、髪の毛とかが暑苦しかったし、成績も悪かったから、暗いダメな子という感じが強かったと思いますが、人当たりは悪くなかったので本当は暗くなく、いじめられっ子にまで堕ちることもなくて、あたしたちとはよくつるみ、むしろ中心的にいろいろなことを提案してみんなをひきずりこみました。実は男子にもモテていました。いや、モテるというのは黙っていても告られるのが多いという意味でしょうか。ならばそれには程遠いのですが、なんだか男子とは話が合っちゃうみたいで、よくヤッているみたいでした。でもそういうことについては、聞けば教えてくれたのかもしれませんが聞きづらかったし、聞くとあたしのほうがモテなくて暗いって判ってしまうのもいやだったので、いや、それもちょっと違うかもしれないけれどもとにかくあんまり聞きませんでした。
 数学の授業が自習になったときがありました。あたしは教室の左後ろの隅の席にいて、つるむことの多い佳奈とすぐ近くに座っていたのですが、美優子は少し離れたところにいました。でも美優子は、はるばる椅子ごと下がってきてくれたので、佳奈とあたしの間にいた男子が佳奈と席を替わってくれました。いや、あたしたちが移動させました。あたしたち三人は勉強はもちろんせず、いっしょに話しました。
 「事件だよ」
 顔を寄せて美優子が言いました。授業であったら地蔵のように暗く固まってしまう美優子なのに、自習になった途端いきいきと喋ります。
 「三年生が、アダルトビデオに出ていて、そのビデオを先生が観たのでバレたらしいよ」
 美優子としては声をひそめたつもりなのでしょう。でも、席を移動した園山という地味な男子の顔に変化があったのが、あたしの席からは見えました。それからおもむろにスマホを取り出していじったので、さっそく検索にかけたのだと思います。ずっと動画を探しているようでした。
 「万引きして、捕まって、それで店長に「親と学校に言われたくなかったらエッチさせろ」って言われて、ヤラれたんだって。それが全部撮影されていたの」
 聞き耳を立てている男子の検索に「万引き」「捕まり」「レイプ」というヒントが与えられました。
 「うそー。マジ?うそー?」
 佳奈は興味津々のはずなのに、気の抜けたような声で「うそー」と「マジ?」という言葉をただ重ねつづけました。
 男子はひたすら検索しつづけてそれらしきものを見つけられなかったようだし、美優子からもそれ以上の具体的な話はなかったし、あたしは、嘘かもなあと思いました。あと、そもそも教師がそれを見つけたっていうことはどういうことよ、とか思いました。

 『絵樹』に寄って商品を見るだけで帰ってきて、家に戻って食事して、お風呂入って世界史の教科書を広げてはおくけど、アッティカという言葉を見て、なんかそれが妙におかしくなってきてぼーっとしていました。我に返ったのはスマホが振動したからで、すぐチェックしました。あたしのスマホはそんなに連絡がくるほうじゃないと思いますが、それでもつきあいがあるので、それなりにはあります。
 その日も美優子はいちいち「自分の生い立ちを語ろう!」なんてメッセージを回してきました。中学生かよ、と思いました。そういうときは二名以上が参加した時点で乗ることにしています。あとは梨華からの、「単語意味教えて。リーダーの56ページから58ページ」のメッセージ。「自分でやれよw」と別の子がツッコミを入れました。ツッコむなよ、とあたしは思いました。あたしも教えてほしかったからです。そのうち、安田さんが丁寧に単語の意味と解説までつけて連絡してくれました。難を言えば解説が長いことですが、これは助かります。安田さんも勉強になるわけだし、あたしたちは予習が楽になるし、だれにとってもよいことです。
 そういうわけで英語の予習はもう終わったことになったようなものだし、倫理・政経も勉強というよりは顔写真とか見ていただけだったので、勉強は終わりです。あたしはそう決めると、電源が入りっぱなしになっているパソコンを開きました。
 スマホで見ていたみんなとのやりとりは、パソコンでも見られます。美優子からの連絡とその返信をもう一度目で追いかけていたときでした。
 ふと昼間の美優子の話を思い出しました。万引きして捕まった三年生の話。
 「万引き」「捕まり」「レイプ」あたしはこの三語を検索窓に入力し、検索しました。
 動画をチェックします。結構ありました。でも削除されていたり、騙しがあったり、余計なものを見てしまったりして、それらしい動画にたどりつくのには少し遠回りしました。
 ようやく一つの動画にたどりつきました。万引きした女子高校生が店長の部屋で、親に連絡されたくなかったらやらせろ、という流れになるものでした。
 完全にヤラセだと思いました。なんせカメラが数台あって、複数のアングルから撮影されていたのです。女子は舐めろと言われたところをすぐ舐めるし、本当に女子高生ではないような気もしました。しかもそれはシリーズ物みたいで、作り物だろうな、とあたしは思いました。男子はバカだからこれで信じるかもしれないけれど。
 学校の噂は、たぶんこの手の動画を見た人が適当なことを言いふらしたんだろうな、と思いました。そういえばいつだかも、卒業生がAV女優になったって噂が流れたこともありましたが、結局嘘でしたし。
 
 その子は、派手な子でした。クラスは同じだけど、あたしが普段声をかけようなどとも思わない、派手な子。ばっちり化粧をしている子でした。きっと自分に自信がないからです。厚ぼったい唇で、尖った声でよく喋る子でした。その子のグループにいたのはみんな、似たような感じの子たちでした。それ以上のことは知りませんでした。
 あたしが嫌われている、というのもありました。少なくともその子には好かれてはいない、と思っていました。
 おそらくあたしのことを嫌ったのは、『絵樹』で彼女を見かけたときでした。珍しく彼女は一人でした。
 暑い日のことでした。『絵樹』の店内の入り口はクーラーが音を立てるほどにフル回転していていましたが、人がごった返していて温度は適温でした。
 声優兼俳優の、山海久遠さんがDVD販促のイベントに来ており、狭い特設ステージの周りに人がたくさん集まっていたのです。
 あたしはべつに久遠さんのことに興味はありませんでした。声よりは顔で売っているようなところがあったし、声優一筋って感じでもないし。あたしはそのフロアの端にある試聴コーナーで、いつもただで聞いている曲があったのです。群衆に構わず、あたしは隅っこで試聴をしていました。
 久遠さんのことを気にもせずに試聴をしている空気の読めない失礼な子がいる、とでも皆思ったのでしょう。イベント中も、チラチラとあたしのほうを見る人がいました。でもあたしは気にしませんでした。あたしはとあるサウンドトラックの強く体を刺激するようなサウンドで脳を満たしていました。音量を思い切り上げて聴くと、皮膚が痺れ始める電子音でした。
 音による酔いのピークを迎え、そっと目を開けたときです。なぜか彼女の顔があたしの目に飛び込んできたのです。その派手な彼女は人ごみの中にいたのでした。こんなところにいるなんて、なんだか見てはいけない瞬間のように思われました。そのあたしの直感は正解でした。
 頭の中を音楽が駆け巡って思考力の低下したあたしは、ぼおっと彼女に見入ってしまったのです。すぐに目を伏せれば良かった。気づいたか気づかなかったかわからないぐらいでそうすれば、お互いに見られたくないところを見なかったことにできた。それどころか、彼女はあたしのことに気づかなかったかもしれなかった。
 でもあたしは彼女を見たのです。変な笑顔になっていたかもしれません。
 彼女は視線からの圧を感じてしまったのでしょう。久遠さんの写真を撮ろうとしていたときに、ふと動きが止まり、それから体をこちらに向け、睨むように視線を突きつけてきた。彼女はものすごく嫌そうな顔をしました。それであたしは怯えて、固まってしまいました。あたしが彼女のことに気づいたということは一目瞭然になってしまいました。
 あたしは、彼女の記憶に残ったのでした。

 でもあたしはそのことを、一度は忘れました。彼女も忘れてくれればよかった。あたしは相変わらず『絵樹』に行きました。二、三日はなにごともなく過ぎました。
 ある日のこと。あたしは『絵樹』のカウンターで『鬼神たちに数珠を捧げて』というアニメのブルーレイの予約引換券を受け取っていました。ブルーレイじゃなければ出せない、人間には聞こえない音域の音が入っているので、DVDではなくブルーレイで買うことにしたのです。
 そのとき頭の後ろに、空気が渦巻くのを感じました。ゆっくり振り向くと  
 彼女だけではありませんでした。あの日とは違って彼女は堂々としていました。それは、あと三人の仲間といたからです。
 あたしは気にしないことにしました。本当は気にしないわけはありませんでした。じいっと背中の視線を感じながら店員さんとやりとりをして、それが思いのほか時間がかかりました。逃げられません。引換券を受け取ると、急いであたしは家に帰りました。

 それから一週間後のことです。土曜日でした。
 『絵樹』でブルーレイを購入する日でした。
 あたしは、『絵樹』に行きました。
 引換券を渡そうとレジに近づきかけたとき。
 「麻月さん」
 そのとき彼女は笑っていました。彼女がなぜそこにいるのか。いやとにかく、いるんです。あたしは恐ろしくなりました。
 「ねえ、ちょっといい?」
 あたしは首を振りました。一瞬彼女は不機嫌な顔になりました。でも、それではまずいと思ったのか、また笑顔を作りました。でももうあたしはその顔を見ちゃいました。
 「ねえ、ちょっとぐらいいいでしょう?あたしも、この店好きなの。ねえ?」
 あたしは抵抗していたのですが、手を掴まれました。店員さんも見ていたので、結局あたしはエスカレーターまで連れて行かれました。エスカレーターに乗りながらあたしは彼女に話しかけられました。
 「ねえ、ちょっとさあ」
 このときの彼女はもう、少し怖い顔になっていました。
 「ねえ、ちょっと。今日はなにを買いに来たの?」
 あたしはだまっていましたが、それからも彼女はしつこく同じことを聞きました。あたしは引換券を手に持っていたので、彼女がそれを覗き込みました。
 「ああ、麻月さん『おにがみたちに数珠を捧げて』を予約していたんだ」
 彼女はさもその作品を判っているかのようにいいましたが、たぶん知らないのにそう言っているのでした。どうせ彼女には山海久遠さんみたいなメジャーな、といってもそれでもかなりマイナーなんでしょうが、それぐらいしか判らないのです。マニアはみな、キシジュズと略して言うし、なにより「鬼神」をオニガミと呼ぶのは大馬鹿でした。ですが、間違いを指摘する余裕なんてありませんでした。
 「ねえ、ところでさあ。あたしに融通聞かせてほしーんだけれど」
 あたしはそすでに充分に怖かったのに、急にに背中に汗を流しました。その頃ソフトカツアゲというのが流行っていて、そのとき使われるセリフが「融通きかせてほしい」だったからです。
 あたしは首を横に振りました。二階から三階のエスカレーターに乗せられました。
 「いいじゃないさ」
 三階から四階に移動しました。このビルは六階までです。
 「融通できるお金なんてありません」
 「これ、買いに来たんじゃん?なら今日はお金あるよね」
 あたしは首を振りました。ないわけないのに、それしかできないから、首を振りました。するとーー
 一瞬でした。引換券を取り上げられました。
 「これいいなあ。ね。返してほしいよね。今日まで待っていたんだもんね」
 彼女もまたこの日を待っていたということに、あたしは気づきました。あたしがお金を持ってくる日。あの、予約をした日に、彼女たちはチェックしたのです。ブルーレイの販売日を。
 あたしは泣きそうになりながら、「返してください」と言いました。エスカレーターは四階から五階に。もう手は掴まれていませんでした。彼女はあたしの引換券を持っているから、あたしは黙ってついていかざるを得ませんでした。
 「これ、ほしいんだろうね。今日中にね。ずっと待っていたんだもんね。そういうもんだよね。腐女子って。じゃあさあ。こうしなよーー」

 「通報しちゃおうか」
 若い店員はそう言ってあたしを脅しました。トキタという店員でした。今考えると黙って通報してくれたとしたら、そのほうがよっぽどあたしの人生にとってよかったのだと思います。
 「いやです」
 と小さな声で言うのがあたしには精一杯声でした。トキタにはそれが不満だったようで、「ああ?」とヤクザが絡むような感じで、すごく大きな声であたしに言いました。あたしはここでもいじめられているような気持ちになりました。いや、いじめられたのだと思います。
 万引きをさせられました。あの子の、ミヤコのいじめで。
 ミヤコはときどき、万引きをしているというのを聞いていました。
 エスカレーターで二人で六階にまでついてしまってからでした。ミヤコはあたしに、万引きをしなよ、と言いました。「友達でしょ。腐女子仲間」
 そう言ってからミヤコは、ワゴンから小さなぬいぐるみを二つ取り上げ、そのまま手に持って歩いて、薄い本の棚の端で驚くほど自然に、二つのぬいぐるみのうちのひとつだけをカバンに入れました。急いで入れるとかじゃなくて、普通に入れました。
 するとミヤコはあたしのところまで戻ってきて、手に残ったほうの一つをあたしに押し付けました。ウサギでした。
 「見ちゃったでしょ。もう。後戻りはできないよ。あたしにだけこんなことさせるの?」
 冷静に考えれば、むちゃくちゃな理屈でした。あたしはミヤコの弱みを見たことになるのに、あたしのほうが追い詰められていました。彼女のことを店員に言いつけることは後々面倒だからできないけど、ゆするチャンスではありました。でも気の弱いあたしは彼女を脅すことはできません。
 さらにミヤコは、あたしに言いました。
 「ねえ、もう融通の件はいいからさ。あたしも利益は得たしね。でも麻月さん。麻月さんもあそらへんから、同じものパクってこないと。あたしの秘密知っちゃったわけじゃん。だから対等にやるにはさあ、ね。さ、今だよ」
 あたしは背中を強く押されました。
 ーーその後あっけなくあたしが店員に見つかり、声をかけられるのを、ミヤコは見ていたはずでした。奥にある、閉まりかけのエレベーターの中で。彼女は、今度は心から笑っていました。自分が捕まるリスクもあったのに、あたしの様子をしっかりと見ていました。その後でエレベーターを閉めた。
 裏の狭い部屋に連れて行かれて、学生証を預かられました。
 「弁償してもらおうか」
 トキタは言いました。あたしはまだブルーレイが買えないことを気にしていました。
 「お金はありません。これは返します」
 と言いました。
 「ばかやろう。万引きしておいて、ただ返せば済むと思っているのかよ。月々の店の損失だって大変なもんなんだ。お前、今回が初めてじゃねえだろう」
 あたしは首を振りました。そのときよほどミヤコの名を出そうかと思いましたが、できませんでした。
 あたしは「違います」とだけ言ってぬいぐるみを置いて帰ろうとしましたが、学生証を取り上げられていることを思い出しました。
 「十倍の額を出してもらわなきゃ割に合わないよ」
 あたしは真っ先に、体を売らなければならない、と思いました。この部屋はあまりにも狭すぎるから、例の万引き少女がレイプされる動画みたいなことにはならなそうだな、とか考えていました。それでも、お金=援助交際 という式は頭に浮かんだのでした。
 「はい……」
 そう言ったあたしは、学生証を返してもらうために、路上に飛び出したのでした。暗い日で、お金を稼ぐために体を売る女子高生が他に通りにはいなさそうなことに、急に心細くなりました。もしかしたら、体を売る恐怖よりも、いけないことをしているということのほうが怖いくらいかもしれませんでした。でも学生証を返してくれず、警察が呼ばれたり親を呼ばれたりして先生にも知れたりすることが、もっと恐ろしいことでした。
 あたしは一人の男を捕まえました。すると黙って手を引かれ、ホテルに連れて行かれました。びっくりしました。
 男が部屋で服を脱いだとき、あたしも制服の上着だけは脱いでいました。そこまでは自分でも意外なほどスムーズに手が動きました。でもそこからは予想通りでした。ワイシャツのボタンに手が伸びません。
 全裸になっていた男は、あたしがここから先は脱がせてほしがっていると勘違いしたようでした。ベッドの上に乗り、後ろから腕を回して、あたしのワイシャツのボタンを外しました。あたしはびっくりして体をこわばらせましたが、彼はあたしの体を一度ぎゅっと抱いてから片方の胸を揉み、一つ一つ確実にボタンをはずしていきました。とても慣れていました。あたしはまったく慣れていません。そんな緊張した顔のあたしをみて、男は大きな声で笑いました。その声の大きさにまたあたしはびっくりしました。
 ワイシャツのボタンが全部はずされてしまって、男はワイシャツを脱がそうとしましたが、あたしは腕を固く組みました。無理に服をはぎ取られるのに抵抗しようと思っていたら、次の瞬間にはスカートとストッキングとパンツが一緒にずりおろされて、あたしの下半身が急に涼しくなりました。あたしは声も出なくなりました。
 男はそれから首を伸ばして一度あたしの体を見た後、裸のまま歩いてシャワーを浴びに行きました。あたしは下半身だけ裸になったまま、ベッドの上に取り残されました。
 あたしは脱がされたものを履きました。ボタンをとめぬまま制服を羽織りました。
 そのときテーブルの上にあった男の財布が目に入りました。それに手を伸ばさないわけがありませんでした。もう色々と悪いことに手を染めていたし、悪いことの中では、こっそりお金を盗み出すのがいちばん簡単なことだったから。でもあたしは運が悪いんです。いや、もしかしたら囮捜査みたいに、男はわざと財布を置いていったのかもしれません。
 気がつくと三万円を手に取ってポケットに入れていました。ほっとした次の瞬間、狙ったように「おい、なにしとる!」って言われました。
 男が浴室からゆっくりと現れ、バスタオル一枚巻くのが見えました。あたしはあわてて逃げ出しました。逃げられると思いました。玄関の扉を開けようとしましたが、開きませんでした。
 「こっちへ来い」
 男が言いました。あたしが逃げようとしているのに、ずいぶんと余裕があるのだな、と思いました。だからまだ逃げられると思っていました。でもどうしても扉が開きませんでした。そこまで慌てる自分が情けないと思いました。
 そうしてしばらくドアノブをガチャガチャやっていると、男が、なにも知らないあたしに教えてくれました。「金を払わないと外には出られないようになっているんやでえ」
 それでもあたしはまだしばらくドアを開けようとしたのだと思います。それから諦めて、その場にしゃがみこみました。
 男は大きなベッドの上で全裸になって手足を伸ばしていました。あたしはもう逃げようがないと分かると、「お金をください」と言いました。
「お買い物はしない主義なんだよ。ドロボーさん」
 男がお金をあたしから取り上げ、あたしは男の前でうつむきました。男はベッドの上で、待っていまいした。
 しばらくなにもしない時間が過ぎました。とても長く感じられました。
 あたしは泣きました。すると男が全裸のまま近寄ってきました。あたしはちょっと身を引きました。それから結局シャツまで脱がされました。なぜかそのときになって、ブラジャーとパンツの色が違うことが恥ずかしくなりました。
 なんだかその後のことは、はっきりとは覚えていません。命令されたりもしなかったと思います。あたしは泣きつづけました。なんだか惨めでした。あんなところであんなことをするはめになったからみじめだったのか、なんなのか。その男の人が嫌なのにその男の人が頼りでした。もうよく分かんなくなりました。
 とにかく男はどうしろとも言わずに、ベッドの上に全裸で寝るんです。だから最後はきっと自分から、ベッドに入っていったんだと思います。
 ハワイアンのBGMが流れていたのが妙に思い出されます。
 気がつくと布団が血だらけになっていました。
 「あれ……」
 と男が言って、私の足に流れている血を見つめました。あたしは急に「大丈夫です」と言っていました。これもなんでそう言ったのかわかりません。
 「ほら」
 男は、買い物はしないと言っていたのに、お金をくれました。ものすごくいけないお金のように思えてきました。急に罪悪感が増しました。
 なのに次の瞬間には「足りない」と思いました。一万円でした。
 男は一度寝込みましたが、すぐに起き上がってまたシャワーを浴びました。
 その後二人目の男の人のことはあっというまに過ぎました。気がつくと三万円を手にしており、学生証を返してもらいに、万引きをした店に行きました。
例の若い店員の姿がありません。名前も知らないし、事情を説明するわけにいかないし、でも店でうろうろしていると万引きしたと思われるし。
 それでしばらく店の外に出て困っていると、若い店員が現れました。あたしは「持ってきました」と言いました。
 店員は呆然としていました。あたしのことなんか忘れたんでしょうか。
 「学生証、返してください」
 店員は二万円を受け取ると、そのままポケットに入れました。千五百円の十倍は一万五千円だから、五千円のおつりがあるはずでしたが、おつりはくれませんでした。
 「しゃあねえな」
 店員は黙って裏口から店に入りました。学生証を渡してくれてないので、あたしはそのままそこで待っていました。
 「ほらよ」
 それから連絡先を聞かれました。
 三日後に店員から連絡がありました。またお金の催促でした。

 あたしはまた悪いことをするんだなあ、と思いました。実はいちばん辛いのは、一人で男の人に声をかける瞬間のような気がしてきました。そこであたしは手っ取り早くすべてを終わらせようと思いました。
 ある日、店員に「あたしを買ってください」と震える声で言いました。驚かれるかと思っていたら、彼はにやりとしました。それであたしは「一回三万円なんです」とふっかけました。
 交渉はあっけなく成立しました。
 あたしはホテルに行くものだと思っていました。でも男は、絵樹の従業員トイレにあたしを連れて行き、あたしのパンツを下ろしたのです。一瞬悲鳴をあげたら怒られました。でもやっぱりひどいと思いました。
 計画は多少狂いましたが、従業員トイレは好都合なので実行することにしました。果物ナイフで男の背中を刺しました。声を出されないように、首も刺そうと思いましたが、ナイフは抜けなくなっていました。
 男の顔が急に青くなっていました。それ以上は思い出せません。見なかったようにしたのか、頭がすべてを忘れようとしているのか。

 あたしは悪くありません。

*     *     *

 彼女は一度そこを通り過ぎた。
 見回して、また同じところに近づいて。
 それを手にとって、見て、裏返して見て、また表を見て置いた。たたずんでから またその場を後にし、また同じところに戻ってきてーー  
 そこに足を踏み入れた。


〈了〉

Ver1.0 2021/2/3

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