【数理小説(18)】 『エルフィンナイト』
人気のない夜明け前のぬるい空気漂う裏庭に、男は現れた。
「少女よ。また私を呼んだのですか。そう度々呼ばれたところで、事情は変わらないでしょうが」
だが、古井戸の脇で背筋を正した少女は、半ば男を馬鹿にしたようにため息をついた。
男は人の顔を覚えるのが苦手ではあるが、それにしても少女の姿はかつてのそれと異なりすぎていると思う。とくに、縁の黒い大きなメガネが雰囲気を大きく変えている。ずっと知的になった印象だ。また、かつて少女は足元をが見えぬほどの長いスカートを履いて、頭にはリボンを巻いて立っていたものだが、今ではパンツルックで、上はずいぶんと薄い生地のシャツを着ている。しかも袖が短い。なんとも簡素な服装ではないか。
その胸の部分にはなにやら書かれていた。
「……CAMBRIC? ああ、早速私の難題の第一問目ということですね。私との結婚はとうに諦めたものと思っておりましたが、まだ挑戦の炎がその小さな胸のうちに宿っていらっしゃったとは。ですがまさか、そんな、え? まさか?」
少女は言った。
「ああ、こっちのCAMBRICね。これは奇しくもあなたが出した意地悪な難題とも関連しているけれど、クラウド、AI、モビリティ、ビッグデータ、ロボティクス、インターネットオブスィングス、サイバーセキュリティの頭文字を取ったものだよ」
「………あの、さっぱり意味が……」
「Bob Gourleyが提唱した、デジタル技術の中核のこと。解んなくていいよ。とにかく時代はずっと進んだってこと。あなたのその格好も、時代錯誤すぎるから」
「あのぉ、今時は、どんな甲冑が流行っているのでしょうか」
「よほど世の中のことに疎いみたいだね。今、甲冑を着ている人は、中世オタクだけ」
そう。男は鎧を着て、手には槍を持っていたのである。
「ええっと、しばらく召喚されずにおりましたからねえ。貴女がお元気か気になって、人に言付けなどを頼んだこともありました。なのにお返事もいただけなかったではありませんか。でも、貴女の着ているそのシャツ。まさに、カンブリックのシャツで、しかも、縫い目がない。どういうことです?」
「作ったんだよ。あんたの望む通りに。あらゆるものに3Dプリンタの技術が応用されているんでね。今やカンブリックも合成樹脂。針や縫い目どころか、ハサミさえ入れずにこの服は作れるんだから」
「ハサミも入れずに!」
騎士が驚くと、頭の上に持ちあげていた兜の目元部分のガードがガシャンと落ちてきて、彼の顔を隠してしまった。彼は恥ずかしそうにそれを元の位置に戻した。
「あと、まさかとは思うけれど、私が誰か、誤解していないでしょうね。妖精さん?」
「え? 先日お会いしたお嬢さんではないのですか? いやたしかに人間にしては長生きだと思っておりましたが……」
「先日、っておい。前回あんたを召喚したのは、私のおばあちゃんのおばあちゃんだから」
「ええ? ではあの清楚なお嬢さんは、結婚されたということですか?」
「ショック受けるのはそこかい。もう亡くなったってところに驚きなよ」
そう、男は妖精だ。召喚されれば人の世に現れる。無理難題を出し、それに答えた者と結婚し、名声と富を与える。彼はそういう役割を持っているのだ。その昔はよく召喚され、求婚され、それをはねのけてきた。
「スフィンクスくんも問題を解かれてしまったと嘆いていましたし、かぐや姫さんも『もう難題譚は流行んないよ』なんてことを言っていたのですが。でも私の問題はまだ解く人が現れなかったもので。っていうか召喚さえされなくなりました」
「その解く人が現れたってことだよ。あんたの召喚法は我が家にだけ代々伝えられたの。クソったれな問題といっしょにね。さあ、おばあちゃんのおばあちゃんへのリベンジだよ。あたしがあんたと結婚してあげる。感謝しな」
いやいやいや、と妖精は手を振った。
「第一問はいいとしましょう。縫い目も針仕事の跡もなしにカンブリックのシャツを作る。これは技術の進歩により作れるようになった、ということでクリア。でも、第二問目はぁ……」
「この枯れ井戸、市の高速道路の計画から守るほうがよほど大変だったよ。今からお見せするよ。ここにもう一枚、同じシャツがあるから。これにペンで落書きをして、と」
「縫い目のないシャツがもう一枚も!」
「だからそこは驚くところじゃないんだって」
少女はペンで『Hello! Boy』と書き、簡単な顔を描くと、それを井戸に放り込んだ。古井戸についていた金属製の蓋をした。
「それでこのスイッチを入れて、と」
彼女はそう言って、なにやら操作した。
「え、どういうことですか?」
「まあ、いいからいいから。ちょっと見ていて。あ、ほら、もうできた。開けるよ」
彼女が蓋を開け、中から先ほど放り込んだシャツを取り出す。妖精騎士はガシャガシャと音を立てて古井戸に近づき、そのシャツを手に取った。先ほど彼女が書いた文字と描いた顔は、すっかり消えていた。
「きれいになっている。さっきの跡が本当にない! これ、マジックですか?」
「井戸に機械を仕込んだの。オゾンを使って、水なしで洗わせてもらった」
騎士は震えていた。
「でも、まさか第3問目は、論外だ。解きようがない……」
「ああ、それな。あっさりクリアだよ。これには技術さえ必要なかったから。知識だけで充分」
「へ?」
「厳密な意味では、接触しているものっていうのはない。だから、海と砂浜の間にも、正確に言うと水分子と砂の分子の間に、空間はある。あんたはどこの海岸で1エーカーの土地を見つけろ、と指定はしていないからね。そもそも海岸というのはフラクタルな構造で、ミクロに見るといくらでも細かく複雑な線を描く。そのミクロのレベルで、水と砂との間の空間を長く足し合わせていけば、1エーカーにはなるよ。はい。解けた」
妖精騎士はそのまましばらく固まっていた。彼の顔は兜の中にあるが、口をあんぐり開けているのが見えるかのようだ。
「そういうわけで、結婚よろしく」
「あの、は、はい」
* * *
かくして、工学科に進んだ娘と、妖精騎士は結婚したという。
目下彼女は「運転しなくても乗れる車を作る」という難題を解いているそうで、「あんたの作った問題なんかよりは、よっぽど難しいからねー」と言っている。それも間もなく解くであろう。妖精の力で、果てしない幸運と名声がもたらされるはずだから。
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Ver 1.1 2022.3.9