アル・アジフ
推薦図書には、アブドゥル・アルハザード著『アル・アジフ』を挙げる。
神田に洋書が揃っている古本屋を見つけた。中に入って物色する。ラテン語や古代ギリシャ語の本が乱雑に置かれている。掘り出し物があるかもしれない、と私はときめいた。
奥に座るオヤジさんの背後に細い通路があるのが目に入る。そこには『許可なく立ち入り禁止』という手書きの札が下がっていた。だがその廊下に、アラビア語で書かれた古い書物が積み上がっているのが見えた。私は念のために聞いてみた。
「そこ、許可があれば入っていいんですか?」
「ああ、この奥ね。ちょっと選ばれた人しか入れるわけにはいかないんだけれど、兄ちゃん、探しものは?」
まさか正直に話すわけにはいかない。
「フレイザーの『金枝篇』とか」無難なほうのものを挙げておいた。
「研究者かなんかかい?」
「え?ええ、死なない呪いとかを探していて、、」冗談っぽく言ってみた。本当は死の呪いのほうを探していると言ったほうが近いかもしれないが。
「兄ちゃん、ハーバードかミスカトニック大学附属図書館の通行証は持っているかい?ハーバードのワイドナー図書館のものでもいいが」
え?なぜそれを、、
「持っています。極秘文献閲覧許可証も。でも最近、マサチューセッツまで行くのは容易ではなくなったので・・」私はそういいながらそれをオヤジさんに差し出した。
「だろうね。だからといって、市中に出回っている本はほとんど偽書だから相手にしないほうがいいよ」
それからオヤジさんは私に耳打ちをした。「アル・アジフでいいなら、あるよ」
えっ。アル・アジフでいいならって・・
あるのかよ。。
「アル・アジフって、あの、アブドゥル・アルハザードの・・?」
オヤジさんは、当然と言わんばかりに頷いた。
現物を見せてもらうことになる。細い廊下を抜け、書店の奥へと行く。巨大金庫があり、それが開かれた。中に十数巻に及ぶ古びた書物が並んでいるではないか。まさかこれを見ることができる日が来るとは。『ブルバキ自伝』(民明書房)を見つけたとき以来の感動である。私は震えた。
オヤジさんは、大著の1冊を抜き出してテーブルの上に置き、その1頁を慣れた手つきで開いた。アラブから書物といっしょに渡ってきた砂を吹き飛ばし、図表のひとつを指し示してくれた。だが、それはウマイヤ朝時代のアラビア語で書かれている上に、理解するには占星術の知識も駆使する必要がある。オヤジさんのレクチャーについていくのは必死であった。幸い副読本として、曙蓬莱新聞社から出ているルルイエ異本の日本語訳『鬼歹老海伝』も用意してもらえた。正気度を削りながら、私は真のクトゥルフ神話知識を身につけていった。
オヤジさんは魔道書にはかなり詳しかった。
「ユゴスは惑星でなくなっちまったろう?あれも陰謀なんだよ」
「クトゥルフ神話大系でなく、オフトゥング寝話大系でググってみろ。禁断の事実や呪文が検索できるぞ」
「日本の魔道書で読む値があるのは、『日本書紀』『日本霊異記』『圓朝全集』あとは『中島みゆき全歌集』くらいだな」
中でも次の事実は驚きであった。
「アル・アジフは、実は日本からウマイヤ朝に行った人物なんだよ」
「ええ?いくらなんでもそれは」私は笑った。
「本当さ。ルルイエっていうのは発音が違っている。『龍宮の家』がいちばん発音が近いな」
「りゅ、龍宮?」
「ああ。ラヴクラフトが示した南緯47度9分、西経126度43分になんか海底遺跡はない。だが沖縄にはあるだろう?」
「ああ、はい。謎の海底遺跡がありますね」
「あれがルルイエだ。龍宮がなまって琉球になったんだ」
「え?マジすか?」
「ああ。浦島太郎のオリジナルは、丹後風土記に書かれている浦嶋子という男だ。彼が海に出たのも7世紀だ」
「あ、アル・アジフが書かれた年代と一致する!」
なるほど、絵にも描けないルルイエの異形のものに出会い、SAN値を下げ、アラビアの狂える詩人となってしまったということか。
私はオヤジさんに、どうしてそんなにクトゥルフ神話に詳しいのか、と尋ねたが、オヤジさんは始めは「蓬莱学園卒だから」と笑ってごまかすばかりであった。
「じゃあヒントをあげよう。海に沈んでいるような神が、宇宙の支配者だなんてのはおかしいと思わなかったかい?」
言われてみればそうだ。弱すぎる。
「真の黒幕はべつにいるんだよ。クトゥルフ神話大系って言葉は意図的なミスリードなのさ。あ、そうそう。アル・アジフにも書かれていない呪文があるな。クトゥルフ神話TRPGのルールブック。あれもよくまとまっている。だがやはり肝心の呪文が載っていないだろう」
「もしかして、『クトゥルフの招来』の呪文?」
「わざと省いてあるのさ。粋だよなあ」
「もしかして、その呪文をご存知なんですか?」
オヤジさんは、答える代わりに笑った。
「真の魔道書は『ラブクラフト全集』だよ。何語版でもいいが、日本語の場合は国書刊行会の全集じゃなければだめだ。あれこそが鍵だ」
「あれってただの小説なんじゃないんですか?」
だがオヤジさんはそれに答える代わりに、意味ありげに眼鏡を外した。私はそれが老眼鏡などではなく、ただの伊達眼鏡であることに気づいた。
真の黒幕。そういえばオヤジさん、色が黒い。千の顔を持つ男。ニャルほど。SAN値 −1。
オヤジさんはおもむろに言った。
「お前さんTRPG『クトゥルフの呼び声』のキーパーをやっていたことはないかい?」
SAN値 −3。私がかつてアメリカ精神医学会の診断基準DSM-IVを携えてクトゥルフTRPGのキーパーをやり、今はなき雑誌『ウォーロック』で、「あなたが選ぶベストマスター」のコーナーで毎月ランキング入りしていたという色んな意味での黒歴史を、どうして知っているんだ!?
「やはりな。お前さんだったか。探したよ」
私は彼が怖くなった。この1時間でもう20%以上の正気度を失ったのではないだろうか?恐怖症を発症したらどうしよう?と思ったが、私はすでに妻恐怖症を発症していることを思い出した。
「すべては壮大な仕掛けなのさ。わざと神話を小説の形の物語にする。そこからゲームが作られる。ところでお前さんはクトゥルフのキーパー時代、ラヴクラフト全集の作品を片っ端からシナリオにしていったろう。『洞窟に潜むもの』から始めて、片っ端から」
「は、はい」そこまで知っているのか。もう隠しても無駄だ。
「そいつを用意してもらおうか。クトゥルフの招来の方法はこうだ。まずろうそくを100本立てる。仲間を集めてラブクラフト全集から作ったTRPGのシナリオを一本ずつやっていく。1話終わるたびに、一本ずつろうそくを消していき・・・」
「えええぇー、ひゃくものがたりぃぃ!?」
星辰正しき時は近い。
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