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福祉と援助の備忘録(13)『家族の意見が尊重されすぎているんだけれど』

福祉と援助の備忘録。だれが治療やケアに同意をするのか、という話。


Nothing about us without us 再び

人は自分のことは自分で決めたい。それは尊重される……ことになっている。


家族よ。汝、彼と何の関係かあらん

ところが、当人の意思というよりは家族が治療方法だのケアだのに対して決定権を持つ、ということのなんと多いことか。

家族にていねいな説明をするのは結構なことだし、家族のほうが知識や判断力を持つことはある。だがそれだけが決定権を預ける理由だろうか?医療・福祉関係者は家族にお伺いをたてる。そして家族が許せば、当人の意思をさしおいてかなりのことをしても、許容されないか?家族は家族の都合のために、ときに本人以上の権限を持つことさえあるように思われる。

そのように勝手に決められてしまったことのせいで当人が家族を恨む、なんてこともよくある。ちょっと例を考えてみよう。

・老いた母親を娘がデイサービスに送る。母親はデイサービスなどには行きたくなどない。

・覚せい剤使用障害の息子を、親が勝手に施設に入れてしまう

・怪我をした子供がリハビリをする姿が辛そうで、見るのに耐えかねた母親がリハビリをやめさせる


上の二つは、即恨まれそうだ。最後の例は、しばらくしてから恨まれるかもしれない。


家族主義の功罪

この背景には、「個人は家に属する」という考えがはびこっているのがあるのかもしれない。個人は家族と一心同体であり、切り離されない。「家の方針、都合はもっとも守られるべき」というのがこの国特有なのか、社会学者に訊きたいところだ。それは幸せをどれほど、不幸せをどれほど招くのだろう。


医療・福祉機関も、当人ではない家族の意思を断固としてはねのける、ということをあまりしない。それは、家族を怒らせないことが重視されているからであろう。そのために本人の意思は家族よりも軽んじられてしまう。それほど、家族とは医療機関にとって、厄介で面倒な権力者なのだ。



親が輸血をさせなかったせいで子供が死んだ有名な事件がある。子供の臓器を親が売った、と聞けば誰も犯罪だと思う。輸血をさせずに死なせることも同様のはずだが、それよりはまだ罪は軽いと思ってしまうし、実際医療者も親の反対を押し切ってまで輸血はしなかった。この事例では子供は親に「輸血をさせて」と頼んでいた。子供に判断能力がないなんてことはない。


子供が死んでも医者は訴えられなかった。逆に輸血をして生かしていたら、訴えられたのか。合理なことを、本人の同意の元にやり、命を救った末に、訴えられる。これでは医者もたまったものではない。それでも家族は当人に替わって訴える資格を持つ。通りがかりの第三者が、「この輸血、不適切!」と訴えたら訴状さえ受け付けられないだろうに。


患者の、患者によらない、患者のための決断

「家族が代理で同意する」「後見人が代理で同意する」という言い方はよくなされる。実際同意書にサインをすることも慣習的によくなされている。医療者が家族から取る言質だ。だが弁護士に訊くと、そんなものに法的な意味はないという。なぜなら「同意」は本人にしかできないからだ。

同意は絶対に必要か?そんなことはない。意識のない患者を前に「さて、治療をしましょうか?それともしませんか?」とあくまで当人主体を貫いたら、医療者が単に判断を放棄しただけであり許されない。


そこで終末期医療ケアを計画するACP、アドバンス・ケア・プランニングなどでは、本人が意思表明できない場合、家族とかの近しい人が『本人なら医療ケアをどうしただろう?』と考えるようになっている。

この文脈だと、家族が推測して決定することがACPだと思われてしまうかもしれないので補足しておく。意思を表明できるならば当人の意見を訊く、できればその終末ケアのお世話になる前から当人が考えて意見を表明しておくのがACPである。本人の意思を「推測」するのは本人の意思表明ができないとき限定である。


改めてNothing about us without us

人は末期に、クレームさえ言えなくなる。

医療者はクレームが少ないことを求める。

当人のためにならない選択がなされ、当人ばかりが苦しむのは、だれの得のためだろう?



Ver 1.0 2022/3/11

Ver 2.0 2022/4/23 後半に修正を施した。

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#同意能力

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