街になぜ ”ぶんか” の拠点が必要か
サードプレイスという言葉がある。ファーストが家である。セカンドが職場であり、学校も含めていいだろう。3番目として、インフォーマルに人々がつながり会える場所がサードプレイスである。たとえばアメリカではかつて郵便局がその役割を大きく担っていたらしい。現代なら、カフェやフリースペースなどがそれに相当するだろう。
家にはくつろぎがあるが、つながりは家族に限定される。職場や学校では人とはつながれるが、やることがあるのでくつろげない。
また、職場・学校は人が多すぎる。めんどうで息苦しく、しばられる場所である、くつろげないばかりか、「耐えられない」と訴える層が現れる。
かくして休職や不登校が成立する。それらは、ひきこもりの入り口となる。くつろぐために家に居ることが、社会的なつながりを断つことに直結してしまうのだ。
これがどれほどつらくて危険なことであるか、人々は感染症蔓延により「不要不急の外出」の自粛を要請されたあの時期に、片鱗だけでも知ったはずだ。飲食店の店員でさえ働けない異常事態の中、動画を観るくらいしかできなかった。そんなものはすぐに飽きあきする。動くことがすっかり少なくなり、イライラするか、気力を低下させていった。
ついには、Zoom 飲み会なんてことまでする始末であった。今ではそんなバカなことはだれもしないが、あのときには本当に必要であった。文化という余剰活動と、人とのつながりに飢えたのだ。ひきこもる中でそれらの価値の大きさを思い知ることができた。
家でもなく、職場・学校でもない場所はいくらもある。ただ、ママさんコーラスやら、英会話教室といった余暇・余剰な活動の中にさえ「所属」はある。所属には「役割・責任」がつきまとう。サークルの役割にさえ苦しむ、あるいは恐れる人々がいる。いっそ所属さえしない、なんとなれば無名のまま居てもよい場所があるとよいのに。
だからといって今時の公園では、人とはつながれないのではないか。たまに声をかけてくる人があるとすれば、ナンパやあやしいセールス・宗教の勧誘である。巻き込まれてはそれまた危険・めんどうなものだ。「カモ」という役割を一方的に与えられることになってしまうのだから。
かくして、つながりとくつろぎの両方が成立する場所としてのサードプレイスが求められる。そこでは「どこかのだれか」でなくともよいし、だれかに利用・消費もされない。まったないとは言わないが、少なくともなんらかの組織・サークルの中よりは「ゆるい」。
居場所には、おそらく箱が必要であろう。野外でもいいが、ただの広場では先に述べたように公園と同じになってしまう。構造が必要であり、それには管理人とが必要だ。
なにもない小屋では人は入りづらいだろうから、お茶・コーヒーが飲めるとか、参加しなくてもよいから絵画や音楽活動などのなんらかのことがなされているというのもアリだ。「文化」はよいつまみである。
ただ、ゆるい活動の拠点を、行政はさほど積極的には作らないであろう。いや行政だって人の文化活動の拠点づくりにまったく無関心ではない。ただ主眼は、多人数の、多くのお金が動く事業にある。「建物族」と呼ばれる議員は大きな箱物作りを優先する。それで多くの人が関わるのなら、悪いものだとは言い切れない。それはそれで必要だし、それで世の中は回る。
とはいえ中心的なものに力を入れすぎると、周辺はおろそかでいびつにならざるを得ない。無秩序な都市計画により市街地開発が優先され周辺が無秩序化することを「スプロール化」というが、文化政策にもこのスプロール化と同様のことが起こっているように思われる。会社・学校という居場所と、巨大公共施設という居場所に大きく頼り切った「街」ができあがっている。
学校に行ける、会社に行ける、というだけでじつは「勝ち組」なのである。ショッピングモールにたむろできるのは「リア充」である。
まちづくりに携わっているのもこの「勝ち組・リア充・マジョリティ」だ。世の中にはそこに近づけない、それらの存在がまぶしすぎてかなわない「マイノリティ」もいる。「勝ち組・リア充・マジョリティ」の作るものは、マイノリティにやさしくない。マイノリティの、存在さえ目に入っていないかもしれない。
ただ私は知っている。まちづくりをしている「勝ち組・リア充・マジョリティ」たち、あるいはその周辺の人々から、疲れ切って脱落する者たちがバタバタと出現していることを。
私は期待している。そういった人たちが回復したのちに、弱き人々にやさしくなるのではないかと。そうすれば弱き人たち、かつての弱き人たちこそが、まちづくりのキーパースンになってくれるかもしれない。
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