おっぱいから観る『シン・エヴァンゲリオン劇場版』(エヴァンゲリオンの病跡学)
(いちばん欲しいキャラが手に入って満足である)
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のポスターを観て思った。
「シンジは、綾波と少し離れて立っている。やはり結ばれないのか?」
さらに、エヴァンゲリオンのパイロットたちは、後ろの波の形と同じような配置になっている(綾波、式波、真希波の波、および渚カヲルくんの渚にひっかけた?)。細かく言うとアスカだけほんのちょっと波側にいる。これは彼岸に行くことを意味するのか?
さあ、四半世紀引っ張った叙事詩の最終話、いよいよ観劇だ。
敵を倒して宝を手に入れるまでの成長物語、という単純な物語ではないことを、エヴァンゲリオンの観客はこれまで思い知らされてきた。鬱展開に次ぐ鬱展開で、主人公シンジの成長はなかなか見られずに(我々の世界での)長い歳月が過ぎていった。
いや。シンジがなんだかポジティブっぽいことを言って、大団円で終わる、という結末をテレビアニメ版では一応迎えていた。だが、それはめちゃくちゃ意味不明な展開で、日本全国をクレームの嵐にするものであった。
謎に次ぐ謎を広げていく作品というのは、それ以前には『ツイン・ピークス』があった。エヴァンゲリオンも、庵野監督が日本版ツイン・ピークスを作りたくてできた作品だと聞いたこともある。
『劇場版シン・エヴァンゲリオン』がついに完結した今、この難解な物語を改めて読み解き解説するファンが後を絶たない。だがその考察はあまりに深く壮大なものになってしまう。
そこで私は、得意のおっぱいという観点だけから説明してみたい。なんとおっぱいを語るだけでも、『エヴァンゲリオン』とうい物語の主要な部分が読み解けてしまう。そう、『エヴァンゲリオン』はおっぱいを巡る物語だ。
おっぱいといえば母である。母を巡る物語といえばオイディプス王であり、そこから派生するエディプスコンプレックスの話である。神話を元にした物語はこの要素を含んでいることが多い。
そもそもテレビアニメ版のオープニングから、おっぱいオンパレードであった。綾波レイとアスカのシルエット、綾波レイの全裸体育座り、あと意外にもシルエットや手ブラでミサトさんのカットが結構多い(ミサトさんの母性の物語と見ると、実はかなり味わい深い)。ここからすでにエヴァンゲリオンが壮大なおっぱい物語であることは暗示されていた。
また、皆にもっとも繰り返し観られたであろう第5話では、シンジが意中の綾波レイの裸体に乗りおっぱいに触れるあのシーンがある。綾波は亡くなった(とされている)シンジの母、ユイのクローンである。「どいてくれる」という綾波のドライな反応は、「いいかげん卒乳してくれる?」という意味にも取れる。
しかもレイがシンジの父、碇ゲンドウ司令を慕っていることが明らかとなる回であり、父子のおっぱい争奪戦がここに明確になる。
碇ゲンドウは妻ユイには固執しており、母の似姿と、取り戻すべき死者という、微妙にズレた人物を取り合う新しい形のエディプスコンプレックス物語が展開される。だが碇ゲンドウは怖すぎるし、シンジはメンタルがダメダメだし、この争い、シンジには分が悪すぎた。なかなか父殺し、父越えに挑みさえできない。
かくして「おっぱいを求めるも与えられない」という状況は続く。
そのために地球に何度も破壊がもたらされ、再生が繰り返される。男の甘えがとんだ迷惑となるものだ。
登場するおっぱいはユイ/レイのものだけではない。
もう『シン・エヴァンゲリオン』とは違う宇宙の話になってしまうが、アスカの裸体は、以前はシンジのオナニーのネタになっていた。だが、最終話ではアスカが全裸で現れてもシンジはまったく反応しない。
かつてシンジとアスカに新しい時代のアダムとイヴになることが託されかけたこともあったが、シンジはそのときアスカの首を締めた。それでも締めきれず、アスカに「気持ち悪い」と言われる(個人的にはエヴァンゲリオンの中で最高のシーンである)。
最後の最後で互いに好きであったことがあるということが改めて言語化されたのにはほっとしたが、この二人の溝は深すぎる。やっぱ結ばれるのはムリだろう。
シンジは長い眠りにつく。これは眠り姫や白雪姫が森で永き眠りにつくのと同じである。サナギの期間である。もっとも起きていても、鬱展開、いやエヴァに乗っている間はサナギの期間が続いているのであるが。これはおっぱいではなく子宮である。
カヲルくんのことも挙げておいたほうがいいだろう。男なのでおっぱいはなくちんこのほうであるが、ピアノの連弾シーンは、二人の性的な関係を匂わせてくれる。いや、きっとそうだ。そのものだ。そういうことにしておく。
『劇場版:||』の田舎の村では、赤ちゃんに授乳するシーンや、小さな子供達、出産が描かれる。母のおっぱいである。次なる世代を育てる役割に回ること、他人に責任を持つことが、成長である。同級生たちは立派に成長し自立している。
『劇場版:||』で「そっくりさん」と呼ばれる綾波に対してシンジは執着を捨てる。目の前で爆発するのを見ても、もうひどい鬱にはならない。
別の綾波に対して名台詞「綾波は綾波だけだ」と言ったことを鑑みると、今回のそっくりさんは「義母」のメタファーかもしれない。その偽物に名前をつけてくれと言われ、最後に「綾波だ」と言うのは、義母を「お母さん」と呼べるようになったとみなせる。生みの母への親離れの象徴だ。(『劇場版Q』では綾波につきまとっていたことを考えると、義母説は少し揺らぐが)
失ったもの、手に入らぬものに固執しその事実を否認するのではなく、それを悼むことができるようになる。それでやっと成長できた。最後の最後で父越えの一戦、通過儀礼である。深読みすれば、槍はちんこである。いやー、ここまでが長かったが、やっと訪れた!
紆余曲折を経て、最後にマリのおっぱいである。巨乳であることを彼女自らがアピールするシーンは伏線だ。「これこそがシンジに選ばれるおっぱいです」という宣言である。結局は大きさか! そりゃアスカでは太刀打ちできない。
もちろんマリから誘ったに決まっている。「にゃにゃにゃ」とか「アジャパー」と常に躁的ATフィールドを張っているから、実年齢の高さが知れる。なんせシンジは、関わりの深い同級生たちの子供なのだ。エヴァの呪縛を利用することで見事合法的にその子供をものにしたショタコン、それがマリなのだ。
ポスターでマリがシンジくんの隣にいて靴を持って手を降っているのは、ヴィクトリーのサインである。彼女は常に健全であった。碇ゲンドウの戦略は将棋に例えられるが、すべての将棋を制した強かな人物はマリである。
(アスカがどうなったのかは、よくわかんなかったなあ)
エヴァンゲリオンは少年がヒロインの少女漫画であった。「お母ちゃんのおっぱいを永遠に求めようとしたちんこが、ピンクの馬にのった大きなおっぱいに救出される話」であった。
めでたしめでたし。
Ver 1.0 2021/3/10
Ver 2.0 2021/3/11 乳飲み子のことを書くのを忘れていた。書き足す。(このように本稿も、リビルドを繰り返す予定)
Ver 2.1 2022/12/31 2022年に読まれた吟遊の作品ベスト3に、これが入っていた。そこで読み直して、細部をリビルドした。