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福祉と援助の備忘録(31) 『メソッドにご用心』

福祉と援助の備忘録、なんか世の中にごまんと溢れる支援技法の話。


多くは語れませんが‥‥

世の中には役に立つとされているノウハウが数多ある。人の支援のしかたも同様で、それらには「誰それの何々メソッド」だとか「何々法®️」と何者かの所有であることがはっきり示されていることがある。

誰かの所有物は、勝手に使うわけにはいかない。物ならばあたりまえのことだが、今の時代は知的財産にもそれが適用される。形がないものでも、使えば使用量を払わなければならない。
音楽教室で曲を演奏してもミッキーマウスの絵を壁に描いても同じだ。

「おいおいおい。誰に断ってここで商売をやってるんだ?」

といったいちゃもんともよく似ている。大企業や反社でなく、人を支援する仕事をしている者が、まさかの「誰に断って…」を口にするのである。曰く、「おいおい。誰に断って『○○子育て法』をやってるんだ?」「あら、その『△△看護ケア』、きちんと許可を取っていらっしゃるの?』などと。

使用する側は言われるまま、ショバ代というかみかじめ料というかを払う。すると今度は

「ああ、そろそろバージョンアップの時期なので、また講習を受けに来てください。もちろん有料ですよ」

なんて、サブスク代をしっかり取られることもしばしばだ。

(実際にはこの手のことにリテラシーがない人もおり、わざとであれ知らず知らずであれ、実際には使用量を払わない場合も多いのだが)

エビデンスベースドの時代だけど?

さてこんな「支援技法ビジネス」はあまりにはびこっており、お堅い機関で働いていても、それら技法を研修させられる。

この手の「技法」についてまず考えておきたいのは、それらがどう開発され経緯をたどるか、ということである。おそらくこんな風なんじゃないかな、と考えてみたのでちょっとご覧いただきたい

とある人がマーケティングにより「あ、こんなところにこんなふうに困っている人たちがいるんだ」と弱者を「発見」する(ここでその人が心から「助けたい」という思いがあるかどうかはどうでもよい)

 → その対象に対しての支援は、それなりには誰かによってどこかでなされている。内容はピンからキリまである。それをさらっと眺める。

 → それに応用できそうななにがしかの支援の方法論をかじる(それを現場で実際にどこまで試して検証を重ねるかは問わない)

 → 『△△法』という名前でとにかく世に出してしまう(それっぽければ出したもん勝ちで、質は問わない)

 →「こんなことで困っている人がいる」ということがそろそろ周知される。みんなどう助けたいかわからない。そこで藁にもすがる思いで検索すると、『△△法』が出てくる。他にそんなのをやっている人も少ないから、「この△△法の研修をしていただこう」となり、提唱者が招かれる。

→ なにかのはずみで、その技法が標準的なものとみなされ、実績までたまってしまう。周りも持ち上げ、提唱者も鼻高々になる。

 → △△法の中身がもう少し整う(それが有用な方向性であるかどうかは問わない。本を書いたらそれなりのボリュームになって格好がつく、というくらいに水増しされればなんでもよい)

 → それが稼げるものになり、『△△法』はバージョンアップされさらに稼ぐための道具になる

→ 実はそれほど役にも立たないし、時間が経てば飽きられるので、やがて誰にも見向きもされなくなる

こんな例はいくらも思いつく。
あまり言うとなんのことかバレそうだが、たとえば保健師がとある指導をするやり方について、それっぽく適度にやさしく知識を伝える方法論がある。だがその中身はエビデンスの観点からはお粗末な代物で、せいぜい「お作法」くらいの意味しかない。そうだろう。上記の開発経緯をたどる中で、致命的に欠けたままなのが「検証」だからである。

「なにを言うか! あまりにインチキなものならばハナから淘汰されるだろう。需要があるってことは、有用である証拠だ」という反論もあるかもしれない。しかも開発者は「それなりに検証をしブラッシュアップを重ねている!」とも言うかもしれない。

だがそれらは学問の世界で作られる方法論とは違う。またそれらの技法は規約により他者が中身を勝手にアレンジできないことも多く、効果を(とくに批判的には)研究もしがたくなっている。開発者自身がその技法をいくら改善しようと、万人にその質を検証される場にさらしていなければ、それは独りよがりが流行に乗ったということ以上の意味をなさないのだ。

かなりの効き目があっても…

本当に効果がある技法でも問題があることがある。

先にある「確立された技法」の構造をつまみ喰いして作られた技法がけっこう多いのだ。そりゃ役に立つか立たないかで言ったら役には立つ。だから「この技法でこんなに救われた人がいるのに、あなたはそれにケチをつけるのか」てな論理で批判をかわそうとする人もあるかもしれない。だがそもそもがパクリであり、パクリはたいていオリジナルのひどい劣化版だ。

たとえばとある子育て法は、勝手にその技法を使用することを厳しくいましめ、すぐに訴訟をちらつかせる。だが実はその中身は『応用行動分析』をまねたものでしかない。たまたま似ているなんてレベルではなくパクリであり劣化版なのだ。「許可なく使用することを禁ずる」が聞いてあきれる。

これらは本当に役に立つ本家の技法の広がるシェアを奪い、効果の薄いものを世に広めるという意味で、やはり害があると言えるであろう。


支援で大事なのは…?

まあ「〇〇式」「〇〇法」も商売である。「こちとらボランティアでやってんじゃねえんだよ!」と。ことによっては開発に元手がかかっており、そうなればそれは回収せねばなるまい。それらはりっぱな商品なのだ。

でも誰もが金をいちばんに考えているとも限らない。実は、金以上に名誉に取り憑かれている人も多いのだ。技法の多くに大層な名前がついているのがその証拠だ。おのずとそう呼ばれるようになった奥ゆかしい場合もあるが、「誰それの◯◯法」なんていうのはたいていその誰それ本人が名づけていたりする。提唱者は「第一人者」「提唱者」「先生」と呼ばれたいようだ。


このように、助けを必要とする人を対象にした技法が、「助けたい」という純粋な思いから作られていなくてもいいのか? 結果的に役立てばいいのだろうが、大きな目で見れば役立っていない、もしくは害が大きい。嘆かわしい事態であることはたしかである。多くの人がその技法に騙され、踊らされる。金も流れる。

だが困って助けを必要としている人はいくらもいる。藁をも掴む思いの人に藁をくれた人は、やはりありがたいの一言に尽きるのかもしれない。うーん、なんか納得したくないのだが……。


「地味」なのがいけない?


そもそもまっとうな技法があるならば、そちらのほうがもっともてはやされていいはずだ。だがそうではない。宣伝が足りないのかもしれない。あやしいのに自画自賛して売り込んでくる技法群より、ずっと控えめだ。

「いや、ちゃんと正しいことを論文で明らかにしていますけれど……」

いやいや、正しいかどうかじゃない。売れるかどうか、人気の問題だ。役立ってナンボでしょ?  使われさえしないものは、役立たないのと同じでしょ? 過剰広告のエセ技法に負けているんですよ?


行動経済学の『ナッジ理論』だとか『ポジティブ心理学』とかは、宣伝もうまいし、学問的にも正しい方の理論だろう。こういうのが必要なんだろう。

ああ、でもあれだけ派手に宣伝され、しかもちょっと言い過ぎと思われる点も多いから、あの手のものも「やっぱなんかあやしいよねー」とつい思ってしまう。
いや、そう思ってしまうのがいかんのか。一般人にリテラシーを求めるよりは、適切な提唱者がプレゼンに長け、乗せに乗せることのようがよほど現実的で大事なのかな。やはり。


Ver 1.0 2024/9/7

#医療
#福祉
#対人援助
#援助職
#技法

前回はこちら。


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