読んだつもり?(1) 「先んずれば人を制す」は、先んじていない人の話だった!
史記『項羽本紀』から
今さらながら知った。いや、何気なく読んでいてあまり気にも留めていなかったのかもしれない。「先んずれば即ち人を制し、後るれば則ち人の制するところとなる」というのは、項羽でもその叔父の項梁でもなく、そう言ったすぐ後に項羽に首を斬られる官吏、殷通のセリフであった。
「秦国に対して挙兵するのに、そなたと、もうひとり有名な桓楚さんを将にしたい」
後の世の人が密室の会話をそこまでリアルに知り得ただろうか? とも思うのだが、ここに文句をつけると司馬遼太郎先生の小説に疑義を唱える輩と同じになる。司馬遷も司馬遼太郎先生も相当調べた上でものを書いているのだし、リアルに読ませるのが紀伝体の醍醐味だ。そういうものとして読むことにしよう。
項梁を呼び出した上での謀反の相談だ。人払いはされただろう。
その後史記の記述ではあっさりと「桓楚殿の居場所は甥だけが知っているから」と外で待機していた劉邦を中に呼び、目配せひとつで殷通を殺させたということになっている。
ここがよくわからない。
楚人の項梁にとって通の申し出は願ったりで、秦を倒すために彼の兵力はほしかったはずだ。なのにそれを受け入れるのでなく、殺している。多くの解説でも、そのことを説明していない。説明しないならしないでいいが、疑問すら呈していないものがほとんどなのはどうも納得できない。
ここで行間を読まなければ、そこに起きた心躍る人間ドラマを捉えられないことになる。私はなんとしても深堀りしてみたい。
実はこの部分が解釈された作品もないではない。その中には項梁が
「せっかく呼んどいて、俺だけっていうならともなく、桓楚もかよー」
ということでへそを曲げたという説明があった。それはないだろう。まずは強大な秦に打ち勝つ必要がある。項梁らが桓楚をライバル視して上に行こうとなどとセコなことを考えていられる状況だとは思えない。むしろ「将をトップは私ではなく、せめて桓楚さんとで左右の将ということでいかがでしょう」とかなんとか、項梁のほうから申し出たのではないかとさえ思う。
これまで秦の暴政下にあり、楚人が苦渋を舐めていたという背景を押さえよう。すると、通は秦側の人間で地域のトップ官吏であるということは見過ごせない。陳勝・呉広の乱以来国内で反乱が勃発する中、彼の言う「先んずる」とはせいぜい「ここでも反乱が起きたとき私が殺されないように手を打つ」というのが本意ではないか
項梁は地域で葬式の際に人を適切に采配し信頼されいてた、かなりの人物である。故国を取り戻すために死をも恐れず戦おうという切なる思いもあったことであろう。民も同じように動かんとしている。
そんな中、己の保身しか考えない男が今目の前にいる。これまで民を苦しめてきた張本人だと言ってもよい相手である。今さら「今は天が秦を滅ぼすことを望んだ時期なのだ」などと言い、詫びの言葉ひとつもない。慇懃でたいそうなことを言うほど白々しいばかりである。
通は頭の下げかたを誤ったのだ。項梁の怒りは激しいものであったであろう。その場で殺すのは準備も充分ではなくリスクも高かったはずだが
あえてその無謀をした。今だと決断したのだ。
さて歴史は繰り返される。秦ほどの圧政ではないにしても今日の日本は、ひたすら民の金を吸い上げて一部の者に流れる仕組みが作られつづけており、当時と似た構造にある。あまりに人を馬鹿にしたシステムに、いつか民が蜂起するかもしれないな、と思った次第である。
Ver 1.0 2023/1/30
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