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「パリに暮らして」 第15話

 ――折しもパリは、移民問題で揺れていた。

 一月に勃発した出版社の襲撃事件以来、街ではイスラム教徒ムスリムの女性が頭に被るスカーフヒジャブぎ取られる事件が起こったり、国会では移民排斥を声高に唱える極右系の政党が着実に票を伸ばしたりしていた。連日さまざまな種類のデモが繰り広げられ、テロ防止の警戒に当たる警官が跋扈ばっこし、街全体に不穏な空気が漂っていた。
 
「やっぱり、行かない方がいいんじゃないか?」
 そう言って私の身を心配してくれた柊二さんに向かってこんな言葉を返したのも、理由のひとつには、この争乱めいたパリの実情があるからだった。彼はテロリストがはびこりつつあるイスラム教徒ムスリムの国に行こうとしている私のこの先を案じてくれただけだったのだろうけれど、その時私は、ついさっき見てきたもののせいで興奮状態にあって、何を言われても彼の言葉に反発することしか考えつかなかった。
「……今の時代、世界中どこに行っても安全な場所なんてないよ。最近の日本の自然災害の多さ知ってる? 大地震はいつどこで起こってもおかしくないし、台風だって毎回二つずつ発生するようになった。日本中の火山という火山が噴火していて、既にもう多くの死者も出てる。かと言って、普通に生活していても、歩道を歩いていただけで老朽化して落ちてきた看板に当たって亡くなるなんてことも実際にあるんだよ。……一体、どこでどうしていれば〝安全〟を確保できるっていうの? 日本にこのまま帰ったって、何が起こるかわからない。パリに留まったとして、……窓の外を見てよ。通りは移民だらけ。……私が言いたいのは……、彼等がいることが問題なんじゃなくて、パリ市民と彼等の間に漂ってる、一触即発のこの空気がたまらない。一瞬先には何が起こるか本当にわからないものね。リアル。リアルだよ」
「わかった」
 そう言って歩み寄ると、彼は静かに私を抱き締めた。支離滅裂なことを言っているのは自分でもわかっていた。けれど、柊二さんは、責めもたしなめもせず、黙って私が落ち着くまで抱き締めていてくれた。……年下であろうが女であろうが、目の前にいる人間をまず第一に尊重する、そんなところが彼にはあった。そして彼のそういうところに、私は一番惹かれていたのかもしれなかった。今だって、ヒステリックになって喋り過ぎている私の精神状態を、この人は一瞬で察知した。温かい抱擁は、張りつめてキシキシ音を立て始めていた私の神経を、数秒の内に鎮めてくれた。
「わかったよ」
 もう一度彼は言った。
 
 
 
 
 
 ――その日の午後のことだった。学校を終えた私は、一人でメニルモンタンの大通りを歩いていた。急な坂道になっているその通りでは、いつものように色々な人種の人々が行き交っていた。フランス人、東欧人、中国人、スペイン人、それに日の没するところマグレブと呼ばれる北アフリカの国々からの移民達が、足早に通り過ぎていた。

 メニルモンタンは、パリ最後の区、二十区ということもあって、元々移民の多い街だった。私自身も家賃の安さに魅力を感じて居住をここに決めたわけだし、パリ市内を何度となく引っ越しした柊二さんが最後の砦としてアパルトマンを借りているのも、この界隈がリザのようなパリジェンヌがあまり足を踏み入れない地域だからという理由からだった。

 この日も治安維持の警察隊が、隅々まで目を光らせながら通りを警戒していた。この街に着いてからずっと、どの区域でも彼等の姿は見られたので慣れていたのだが、彼等の醸し出すものものしさが、平和なはずの通りに異様な緊張感を与えているのは確かだった。

 突然、大通りから左に折れる小路の方から、何か言い争う声が聞こえてきた。道行く人達の内の何人かが、足を止めてそちらの方向を見ていた。フランス語で、低い話し声と叫ぶような甲高い声が交互に聞こえてくる。私も何の気なしに、見物人の中に入り込んだ。
 ――通りに沿って建ち並ぶ集合住宅の前で、四人の警察官が、北アフリカマグレブ系とおぼしき青年を取り囲んで、何やらもめていた。職務質問でもしているのだろうか、身分証明書のようなものを出させて厳しくチェックしている。
 青年は背が高く、細面で、暗い大きな目をしていた。

 ……ああ、似ている、と、私は思った。

 記憶の中から排除してしまいたいあのイメージが、急に鮮明に浮かび上がってきた。彼の顔……、彼の仕草……。皮肉なことに、今警察に囲まれてしつこく責め立てられている青年は、かつて私が愛した、やはり北アフリカマグレブ出身のあの男に生き写しなのだった。
「よくある顔なんだわ」
 私はそうつぶやくことで、気持ちがたかぶってくるのを抑えようとした。そう、今までにも、テレビなどで彼に似た風貌の男性を数多く目にしてきた。イタリアの漁師、イラクのサッカー選手、日本の旅番組の現地ガイド、アクション映画に出てくる悪役の野蛮人……。けれど、それはもしかして、誰を見ても、その容貌に彼の姿を重ね合わせてしまっているからかもしれない、と思った時、それほどまでに彼に心を囚われているのかとやるせない気持ちになったものだった。
 でも、今日、向こうで警察に囲まれている青年は、見れば見るほど、まるで彼本人なのではないかと思うぐらい、本当によく似ていた。
 
 警察は長々と取り調べをしていた。途中でどこかに電話をかけ、何か確認しているようでもあった。一人が電話で話している間、もう一人の警官が、青年に幾つか質問をしていた。青年は肩をすくめ、首を振って何か答えていた。彼はまだ、とても若く見えた。
 
 
 ――その時だった。突然青年が警官の一人に殴りかかり、隙を見て逃げようとした。警官達は一瞬ひるんだものの、一人がすぐ我に返り、拳銃を抜くと、駆けてゆく青年に向かって後ろから発砲した。青年は太股を撃たれ、十メートルほど進んだところで倒れた。警官達は、全員で躍りかかって青年を捕まえた。彼等は、地面に押さえつけられて身動きできない青年を、猛烈な勢いで蹴ったり殴ったりし始めた。フランス語の暴言が通りに響き渡り、こちらから騒ぎを見ていた人々の中からも、興奮して誰かが叫び声を上げた。

Allezアレallezアレ! やっちまえ! 

……それは、怒りと憎悪に満ちた声だった。
 
警官達は、その青年を逮捕し、連行していった。彼が危険人物と断定されて連れ去られたのか、警官を殴ったせいで捕まえられたのかはわからなかった。この先あの青年は、どんな運命を辿るのだろう……。
 
 
 見物人達は一人、また一人と去って行った。立ち去る前に、「逃げたってことは、あいつはテロリストだな」と決めつけて行った人がいた。
 私は最後の一人になるまで、その場から動けなかった。たった今目にした光景に、心臓が早鐘を打ち、頭の芯がしびれたようになっていた。
 パリの人間達の、狂気と暴力を目の当たりにした気分だった。この街が、これほど緊張の限界に達しているということを、初めて肌身で感じていた。 

 その時私は、自分の足が震えていることに気がついた。……警官の放った銃の音がいつまでも耳に残り、あの、彼によく似た若い青年が後ろ手に手錠をかけられて連れて行かれる様が、目に焼き付いていた。
 
 ――ところが、そんな時に、ふと私の中に、ある考えが浮かんだのだった。手錠をはめられ連行されて行くあの青年の姿が彼と重なったせいかもしれない。それはかつて彼が北米のあの街で、実際に警察に連行された時の様を見せてくれたような気がした。

 ――その時私はかつて愛した男を、できるだけ早く自分の中から抹殺しなければならないと思った。……少なくとも、あの男に私という厄災・・が舞い降りるようにしてやるのだ、と……。
 するとたった今まで感じていたおびえは掻き消え、暗い気持ちの底から、妙な勇気のようなものが湧いてくるのを感じた。その時私は、自分自身を恐ろしくさえ思った。

 そう。私は、どんなことがあっても、決してひるまず、私の計画を完遂しなければならない。そうしなければ、いつまでも新たな一歩を踏み出すことができない……。震えながら、そう思った。すると、一刻も早く行動したいという衝動に襲われた。
 
 私はその足で、柊二さんのアパルトマンへ向かったのだった。

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