【短編小説】 シャルトリューズからの手紙 第7章
急に話の風向きが変わったので、好奇心に駆られて僕はつい聞いてしまいました。
「そうです。人の噂によると、彼女は彼女のすぐ下の弟に溺愛されていた。年の近い間柄だったから、幼いころからくっつき合って育ったのは皆が知っていました。私は彼女が彼女の弟を、きょうだいじゅうで一番愛しているのも知っていました。ところが」
「ところが、何です?」
伯爵の顔色が少し変わった。
「おぞましいことです」
「何でしょう?」
じれったくなって、僕は先を急かしました。でもこういった態度は、この場合、とても失礼なものだったとあとになって気づきました。
「未婚のまま誰の子ともわからぬ子どもを産んだことに怒った弟が、彼女を酷く痛めつけたらしいのです」
「えっ?」
伯爵は黙っていました。僕はショックと好奇心から、さらにその次を促してしまいました。
「暴力に訴えて、彼女を犯したというのです」
「そんな! 実の姉ではないですか」
僕は叫びました。ちょっとものすごい話になっていました。伯爵は続けます。
「そうです。実の姉を、です。……弟は嫉妬に狂っていたのです」
伯爵は胸の内ポケットからハンカチを取り出して、緩やかな動きで顔を拭いました。
「その〝近親相姦〟の期間が、どれくらい続いたものかはわかりません。周囲の人々は、そんなことになった原因である彼女の相手が私だということを知らないので、訳知り顔で面白おかしくその特大のゴシップを囁いてきます。『畜生より悪いね』と言ったのは、はて誰だったか……。私にとっては、針の筵に座らされているような、大変に辛い時期でした。
その上、姉弟のあいだには、子どもまでできたという噂も流れてきました。恐ろしい話です。その子どもが結局どうなったのかは、私も知ることができませんでしたけれど」
あくまでも噂でしたからね……と、伯爵は、長い話をしてすっかり汗が浮き出た顔を、もう一度丁寧な仕草で拭きました。
そのときです。先だってから、僕はずっと奇妙な気分が沸き起こってくるのを感じ続けていたのですが、それが何だかわからないなかでモヤモヤとしている状態だったのが、少しずつ、はっきりと、まるでトンネルの先に微かな光が見えたときのように、明晰に閃くものを感じました。
でもそれは、決してトンネルの先の光のように、晴れやかなものではありませんでしたし、そのときすでにもう僕にはすべてが見えていたような気がします。
「伯爵」
僕は言いました。
「何でしょう?」
そのとき伯爵の声は、やけに能天気に響きました。
「お相手の方が産んだ赤ん坊がやられた施設の名前をご存知ですか?」
「ええ、うろ覚えですが。……確か、桃園……」
「桃ヶ丘養護園」
伯爵の目が、キッと僕を捉えました。体じゅうが、緊張に震え出すのがわかりました。
「――その、弟さんとのあいだにできた子も、おそらく同じ施設に入ったはずですよ」
――お姉さん。世界とはかくも狭いものでしょうか。世界じゅうに数多ある都市の、数多ある人と人との触れ合いのなかで、こんなことが起こるなんて……。でも僕はその瞬間、人間の手のとうてい及ばぬ神の力というものは確かにあると思い知ったような気がしました。
僕の言葉を聞いたあと、伯爵はとてもその場にいられないような様子で、あたふたしながらどうにかして何か僕に言葉をかけようとしていましたが、とうとうひと言も言葉を発せず立ち上がりました。
「申し訳なかった」
目をきつく閉じ、引き絞るような声でようやくそれだけ言うと、入ってきたときとは正反対に、まるで空き巣に入ったのを見咎められた泥棒みたいに卑屈な姿勢で、さっさとギャラリーを出て行きました。狼狽したその姿は、とても華族のようには見えませんでした。
僕は茫然としてそこに残りました。美術館のなかは、相変わらずほかに誰も客はいません。シーンとした空間にひとり佇んでいると、いま起きたことが悪い夢か幻のように思えました。
伯爵はそれから二度と戻ってくることはありませんでしたから、その日僕は三枚もの絵を売り損なったことになるのですが、そんなことはどうでもよくなるくらい、重大なことを知ってしまいました。
僕はその日彼から聞いた話を何度も反芻しました。酷く混乱もしましたが、数日かけて、どうにか理性的に頭のなかで整理できるところまでは持ってきました。そして、2つのことを心に誓ったのです。
ひとつは、自分はもう二度と日本に帰ってはならないということ。
もうひとつは、この真実を、生きているうちに、いつかはお姉さんに伝えること。
――夜のしじまの只中に祈りを捧げていると、不意に涙が流れることがあります。僕はこの涙がどこから来るのか、ずっと不思議でした。清らかな川が僕のなかを流れ出したのか、それとも何かもっとよこしまな、穢れた濁流のようなものが押し寄せてくる前触れなか……。そのどちらであろうとも、僕は受け入れる覚悟でいます。
ときおり、僕のいまいるこの山の上の修道院は、どういう場所なのだろうと考えることがあります。いつか修道院長は、僕たち修道士に向かって「我々は祈りによって世界を照らす灯台守のような存在」だと言いました。なるほどそうなのかもしれません。けれど、まったく逆に、僕はときどき、このどことも隔たった自分の小さな個室を、深い海の底にあるひっそりとした隠れ場のように感じることがあるのです。ここは世界じゅうのどこからも完全に隔離されていて、特に祈りに没頭しているあいだは何も見えず、何も聞こえてきません。そんな場所から僕はじっと、遥か上のほうにある現世と呼ばれる世界を見上げているのです。
こういった感覚からも、真の祈りは生まれてくるでしょうかね? 可笑しなことです。
あるいは、このような感覚が生じてくるということは、僕がこの生活にずいぶんと馴染んできた証拠と言えるのかもしれません……。
そして、この暮らしにますます順応してくるにつれて、この孤独と静寂が自分を享受してくれていること、これを僕がいかに欲していたかということに気づくに至りました。僕はいま、深く自分のなかに落ち着いて、いよいよ神の光に触れることのできるときが来るのを、待っているのです。
「あなたがなぜ自ら好き好んで、そんな牢獄のようなところに身を置くのかわからない」と、貴女は言うかもしれません。
ですが、僕はここを牢獄だなどとは思っていません。
――むしろここは、僕にとっては極楽です。でも、僕は貴女のためなら、どんな酷い牢獄にだって入ることでしょう。そこで、貴女のために祈り続けることでしょう。
――実際、いつもどこにいるときも、僕は貴女のために祈っていたのかもしれません。僕は祈り続けます。どこにいようとも。
いつか貴女が笑顔を取り戻し、再び誰かのために笑うことができるのなら!
手紙を抱きしめて、私は泣き崩れた。
――あの世に持っていける唯一のものは、記憶だ。それはこの世の誰が知らなくても、決して消えることもなければ侵されることもない、絶対のもの。
「書くことは記憶を固定することである」とどこかで聞いたことがある。私は自分のために短い手記を書くことで、まったく価値のないもののように思われる私の人生のなかにもいくつかはあった、大切と思える記憶を固定することに成功したと思う。
手紙を書いた弟にしても同じことだ。書いたことによって、弟の想いは彼のなかに深く沈降し、いつか彼が亡くなったあとも永遠に残ることだろう。
私の肉体はいま、少しずつ消えてなくなろうとしている。この数年患っていた病は、いよいよ命を取りに来ようとしているようだ。私はそれを日々感じている。もう間もなく、弟から届いた手紙もこの手記も、開いて読み返す力もなくなるだろう。だからこれらを女中の真野さんに託すことにする。この家の人たちの心ない干渉に曝されることから守るために、そうすることにした。こどものころから私たちに寄り添ってくれた信頼の置ける彼女ならば、これらにふさわしい置き場所を定めてくれるだろうから。
それでも私たちの書いたものは、いずれなくなり消えてゆく。
でもだからといって、何の煩いもない。固定された記憶は消えず、いつまでも残り続けるのだから。
こんな大切なものを持っていけるのだから、私たちは幸せだ。