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「でんでらりゅうば」 第9話

 ――それから二週間が過ぎ、安莉の頭と太股の傷も大分回復した。風邪の熱も平熱になり、重だるかった体も段々と正常に戻ってきてアパートのなかをゆっくりとなら動けるようになった。
 あれ以来、頭を打ったせいか、それとも熱で寝ていたせいなのか、頭のなかがボーッとするような感覚が続いていた。いったいあの赤い目は何だったのだろう。あの夜確かに見た、決して獣のものなどではない真紅の色をした二つの目を思い出すと、身の毛がよだつような禍々しいものを感じた。……でも、皆の言うとおり、自分が知らないだけで、ああいう赤い目をした獣もいるのかもしれない。そう考えて自分を納得させようともした。それでも、一方で、あれは確かに人間の目だったという思いも拭いきれなかった。
 ……けれど、思考は二つの考えのあいだを行ったり来たりするばかりで、その先に続かなかった。ときどきものを考えようとしても、考えがまとまらないことがあった。

 安莉がこの村に到着してからひと月が過ぎ、秋が深まってきていた。見舞いに来てくれた折、村の年寄りばあのひとりが言っていたが、この村は標高の高いところにあるゆえ、冬には雪がどっさり積もるそうだ。
 自分はこの村にあとどれくらい滞在するのだろう、と、ふと安莉は思った。契約では三ヶ月ということになっていたが、希望すれば延長も可能だと言われていた。海のそばの温暖な土地で育った安莉は、雪に振り込められた風景に憧れがある。ここで真冬の雪景色を堪能しながらじっくりと静謐せいひつな時間のなかで心わずらわされずに執筆し、村で迎える正月を面白く眺めて、書き溜めたノートとパソコンに入力した文章を携えて山を下りるというのもいいかもしれないと思い始めていた。そういったわけで、可能であれば、滞在を延長するという思いも浮かんでいるのは正直なところだった。それに近ごろの安莉は村人たちが来訪したときにしていく話の影響もあり、この村について興味を抱くようになっていたのだった。村の風習や成り立ち、歴史に対する、好奇心に端を発した民俗学的な興味だった。あるいは、そのことを書けば面白いかもしれない、とまで安莉は思い始めていた。

 アパートの外で、カサ、カサと枯葉を踏む音がしている。その音はさっきから聞こえていたのだが、複数の人間の足音のようである。深まる秋は、山の静けさをいっそうくっきりと浮き立たせ、さまざまな音の響きを鮮明にする。
 アパートの周囲を歩き回りながら話す、年配の男の声が聞こえた。
「もうそげん先延ばしにはできんたい」
 栗の実でも拾っているのだろうか、鉄鋏で何かをかねのバケツに放り込む音がする。
「雪が降るまでたい。降ったら、もう道は塞がっけん」
 もうひとつの、年配の女の声が返す。
 何だろう。何を先延ばしにできないのだろう。雪が降れば道が塞がるという。塞がったら、どうというのだろう。二人の会話の意味が安莉にはわからなかった。村の秋祭りでもあるのだろうか。けれど、雪が降って道が塞がることと秋祭りとが、関係があるとは思えない。
 この村に対する民俗学的な興味は沸々と湧いてきていた。けれど、それだけのことを考えると、安莉の頭はまたぼんやりしてきて、考えをまとめられなくなるのだった。
 
 ――「いっぺん、高麗こうらい先生のとこに行ってみらんね」
 昼食の片づけをしながら、砥石といしかつが言った。
 あの日から毎日、村の女たちは入れ替わり立ち代わり安莉の部屋を訪れては、甲斐甲斐しく身の周りの世話をしてくれていた。ひとしきり続いた村人たちの来訪も収まり、傷も大分回復はしたものの、未だに立ちくらみや動作の緩慢さが抜けず、出血したことが原因で恒常的な貧血状態になってしまったらしい安莉の健康を気遣い、女たちは精のつく料理を携えて安莉のところにやってくるのだった。
 勝は、安莉がぐったりと座っているソファの前のテーブルから皿や茶碗を下げながら言った。
「高麗先生なら、きっと安莉さんが元気になる処置をしてくるっとばい」
 村には〝高麗先生〟と呼ばれる医者めいた存在がおり、村人たちの病の治療に当たってきたという。この村よりも更に奥深く深山に分け入った場所に診療所を構え、薬草を採っては薬の調合をしながら半分仙人のような暮らしをしている。けれどそこは村人に対していつも開かれていて、村人は病気になると下の村の病院よりもまず先にこの高麗先生の診療所を訪れるのが常だった。
「昔っから、高麗先生は村んの健康を守ってくれとったい」
 食器を乗せた盆を台所のほうへ運んでいきながら勝は言う。
「大概の病気は治せんもんはなかとたい。うちが連れていってやるけん、今度いっぺん診てもらいに行ってみんね」
「そうですね……。いいかもしれませんね」
 安莉もその気になって言った。

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