【エッセイ】 猫のエスプリ
エスプリ、という言葉がある。これまで何となく見聞きしてきた中での私のざっくりとした認識では、フランスの、パリの知識人などがキラリと知性を閃かせることを意味するものということになっている。
天下のWikipediaによると、
とのこと。
精神であり、霊魂、心のはたらきと表されている。このエッセイの表題にも書いた通り、私はどうもこの〝エスプリ〟というものは猫によって最も表現されているものではないかと思っている。
それはもう、そこらのパリジャンの持ち得るものを凌駕するくらいなのではないかと。
猫という生き物は、まず、その存在自体で〝ズルい〟。
被毛の柔らかさ、美しさは言うも及ばず、まっすぐに人を見据えるあの瞳は、抗う余地の無い力と妖しさを秘めている。
仔猫の頃は無意識に行っているのであろう、猫好きのココロを掴み、その人間を自由自在にコントロールする為の手練手管を、成猫になるまでには脅威の学習能力で習得している。
猫と暮らしてみればすぐに気づくことであるが、彼らにとって最も大事なものは、〝快適さ〟である。無論、生命の維持という最低条件については保証済みの上でではあるが。温かい屋内に住んで凍える心配が無く、かつ食べ物を満足いくまでもらえ、糧食の確保に駆けずり回る必要の無い環境に身を置いているとすれば、猫達が最重視するのは、おのが立ち振る舞う場がいかに心地良いかという一点だ。
そう確信するのは、我が家の猫の行動を見て、感ずるものがあるからである。彼は8年前、12月のクリスマス、ちょうど今頃の時期に我が家の一員となった。数日前から近所界隈を仔猫特有のか細い声でニャーニャー鳴き回って、流浪の限りを尽くしていた。
家人や近所の人らが接するに、どうも人に慣れた仔猫らしい。事実、私の足下にもまとわりついて離れないなど、最初から可愛い仕草のオンパレードだった。ただ、抱っこがどうしてもダメなようで、腕に抱くと途端にぴょーんと跳ねて、2mほど先の道路に着地した。
その猫が我が家に迎え入れられて以来、最初はややおどおどと遠慮がちに振る舞っていたものの、徐々に慣れてくると、ホットカーペットの上で仰向けになって寝るわ(俗に〝ヘソ天〟と言われるアレですな)、そばに来てちょこんと座り、視線をじっと合わせさえすれば即座に食べ物が出てくるシステムを勝手に構築してくれるわ、体を撫でて欲しい気分の時は、白くなよやかな前足をすっと伸ばしてちょっと飼い主に触れさえすればいいことを完璧に理解していた。
そんな風に自分にとって快適な環境を作っていく過程で、彼がエスプリを駆使していることに、ある時私は気づいたのだった。
ここでウィキペディアの定義に戻ってみよう。
エスプリというのは、精神、霊魂、心のはたらき。知性、才気、ウィットなどの意味もあるという。
ウィットという言葉の意味を曖昧にしか理解していなかったので、この場にて明確にする為にネットで調べてみた。
ウィットというのは英語の言葉で、witと綴られ、直訳すると機知、機転などを意味する語だそうだ。気の利いた会話や文章を生み出す才能や知恵のことで、その場の流れや雰囲気に合わせた臨機応変な返しや、機転の利いた思いつきのことを表す。
ちなみに昔アメリカの小説の翻訳文庫本を読んだ時に、背表紙に「……ユーモアとウィットに富んだ傑作」みたいなことを書いてあって、そこで「ユーモアとウィットの違いって何?」となったことがある。
ユーモアとウィットは類義語とされていて、その違いは、ウィットは〝理知的なおかしみ〟であるのに対し、ユーモアは〝人間的・感情的な温かさを伴うおかしみ〟ということになるのだそうだ。
よく言う「ウィットに富む」とは、機転やとんちに溢れていることで、頭の回転の速さ、理解力、知恵などがあるようなイメージとなるという。……その場の状況に臨機応変に対応して、うまい切り返しをすることや、それが出来る才能を意味する……まるで一休さんではないか。
日本のお笑い芸人で例えると、あくまで私的な意見だが、明石家さんまさんとずんの飯尾和樹さんはウィットの塊のような人だと思う。あとタレントでウィットというと私の頭の中には若槻千夏さんが浮かぶ。
対してユーモアの範疇で売っている芸人は余りにも多く……。代表として挙げるなら、出川哲朗さんとか錦鯉のマサノリさんとかになるのだろうか(もっと沢山いそうな気がするけれど)。
ユーモアは「湿気」humidから来ている言葉だそうで、そういった人間本来の持つ〝呼気のぬくもり〟のようなものを排した頭脳から来るドライな笑いのことをウィットと言うようだ。
そして今回のテーマである〝エスプリ〟は、それよりももっと乾いた、よりシリアスで冷笑的と言ってもいいような感覚である。それはフランス人のお家芸のひとつ、“我”が前面に出てくる個人主義を投影している。気まぐれでつかみどころが無いところに魅力があるという点においてパリジェンヌと猫を比べてみると、確かにイメージは重なる。
更にドライ度で言うと、ユーモア→ウィット→エスプリの順にどんどん乾燥していく。 エスプリには、ユーモアとウィットが内包するサービス精神や人情とか可愛げとかといったものは受け付けないシュールな気位のようなものがある。
再び冒頭に挙げたウィキペディアからの引用に立ち戻ってみると、エスプリというのは批評精神に富んだ軽妙洒脱で辛辣な言葉を当意即妙に述べる才のことだそうだ。更には、〝乾いた知的な営み〟で〝鋭い武器となる〟とも。
猫は言葉を発さない。と言うより、口の構造上人間の言語を発音することが出来ない。けれど、一日じゅう家族の者を観察して批評している節はある。頭の中では、軽妙洒脱で辛辣な言葉を当意即妙に述べているに違いないのだ。彼らの顔つき、些細な表情の変化を見るにつけ、その内側では疑いようもなく乾いた知的な営みが行われていると思われてならない。彼らの具える〝鋭い武器〟については言うに及ばず、だ。
調べたことをまとめると、ウィットは明石家さんまさんやずんの飯尾さん、ユーモアは出川哲朗さんや錦鯉のマサノリさん、そしてエスプリはパリ人と猫、ということになる。
えらい分類だなー……と我ながら可笑しくなってしまったのだが、逆に猫ってすごくない? とも思うのだった。
前述した通り、彼らは言葉を発さない。だが、にもかかわらず、人語を操らずして人を使役し自らに最も居心地の良い環境を整えさせることに成功している。
視線、仕草、にゃあというひと鳴き、グルルルル……という喉の音、体をくねらせ人にこすりつけてくるあの確信犯的なスリスリ……。猫という生き物は、家族に対する愛情や要求を表す無言の交流の中に、あざとくも愛おしい濃密な伝達手段を散りばめている。
我が家の猫は気まぐれに水を飲み、気まぐれにカリカリを食べるが、水を飲みたいときには水を入れてある容器にじっと視線を注いで催促するし、カリカリを食べたいときにはお皿の前に行って座る。それらは彼が何かを「所望する」というサインなのだ。
ちなみに皿にカリカリが入っていても、人の手で目の前に寄せてもらわなければ食べ始めないというルールを自分で決めている。「俺は行かないから、お前が持ってこい」と、無言で命令するのだ。しかも、ただ我々の愛情を確かめる為だけに、空腹でもないのに目の前にカリカリのお皿を移動させることもある。
また寝床においては、日中の身勝手さを相殺するかのように、愛情を溢れさせてくる。うちの猫は家族の中でも私を母親と感じているようで、毎晩私と一緒に寝るのだが、冬の夜などは温かい羽毛布団の上に乗って何とも柔らかい仕草で布団をモミモミする。仔猫が母猫の乳房を揉んで乳の出を促す時に行われると言われるこの仕草を、成猫になっても行うのは甘えん坊の猫の証拠だそうだが、うちの猫の場合はまさにそれだ。しかも彼は甘えん坊猫の極みであるとされる、飼い主と枕を共有する寝方をする。それどころか飼い主の頬に自分の頬をぴったりとくっつけ、首に手を回して抱き締めるようにして寝さえもする。その上で何とも機嫌良さげに喉をゴロゴロ言わせてくれるのだから、こちらとしてはハートを鷲掴みにされずにはいられない。
彼らの発するものを“エスプリ”と呼ばずして何と呼ぼうか? それはまさにエスプリという言葉の定義である知性、才気、状況に応じた機転である。
自分の可愛さや美しさという魅力をよく理解していて、かつ人間に対してそれを完璧に使いこなして日々を送っている彼ら。「猫様の云うことには逆らえない」、「気がつけば猫中心の生活になってしまっている」……。猫飼いの人はほぼ口を揃えてそう言う。
でもそれでいいのだ。猫様は聖なる存在が、我々に授けてくれた貴重なプレゼントなのだから。世話をしているのではなく、「お世話をさせてもらっている」という自覚が、我ら猫飼いにはある。
この素晴らしい存在を身近に感じて毎日を過ごすことが出来るなんて、なんて恵まれているのだろうと思う。ゆえに猫にはエスプリという高尚な言葉が果てしなく似合うのであり、それはウィットでもユーモアでもない、猫様が我々に絶対的な指令を発する時の大切な媒体であるのだ。