【長編小説】 初夏の追想 6
――恍惚とした感動に浸っていた私の耳に、突然、砂利道を走る車の音が聞こえてきた。
「何だ……?」
私は訝しんだ。こんな朝早く、いったい何ごとだろう? ここにやって来てから自動車の音を聞くことなど初めてだったし、それにこの時間である。
その車は速度を落とすと、はす向かいの別荘の前に停まった。汚れや傷ひとつない、黒光りしたセダンの高級車だった。
私はバルコニーの手摺りから少し身を乗り出して、誰かが車から降りてくるのを待った。
バルコニーからは、ほんの少し身を乗り出せば、はす向かいの別荘の入り口から前庭を抜けるアプローチの途中までを見ることができた。ここではどの別荘も、プライバシーを守るために前庭に木立や植え込みを幾つも作り、外側からは簡単に家の中が見えないようにしてある。
車の中から、人が降りてきた。彼らは三人連れで、見たところ家族のようであった。母親と、兄弟らしい二人。ひとりは成人しているように見え、もうひとりはまだ幼さの抜けない少年のように見えた。つまり、向かいの建物と祖父の住むこの建物の持ち主、犬塚家の人々なのだろう。
どうしてこんな時間に着いたのか? 真っ暗な山道を、長い時間走らなければならなかっただろうに。
私はやはり訝しく思いながら、彼らを見続けていた。彼らは大量の荷物を携えて来ており、それを皆で代わる代わる別荘に運び込んでいる。
ふと、弟らしい男の子のほうが、私の目に留まった。なぜなら彼だけが、ほかの二人とは違う行動を取っていたからである。
母親と兄と思しき男性は、軽々と荷物を持ち上げ、それをせかせかと建物の中へ運び入れていった。だが、その男の子だけは、ほとんど動かず、何も手に取ろうとせず、ただひたすらぶらぶらしているのだった。彼のその様子を見て、ほかの二人が少し気分を害しているのがわかった。何と言っても、荷物の数は相当あった。中には食料品を入れたダンボール箱のようなものもあり、彼らは何度も往復していて、それはさながら引っ越しのようだったのである。
しかし、母親ももうひとりの男も、彼に向かって何を言うでもなく、淡々と荷物を運び続けていた。
その男の子は、彼らが気分を害しているようなのに気づくと、そのことによってますますやる気をなくしたように見えた。彼は最初からまるで非協力的だったが、それからはなおさら彼らを避け、見まいとでもするかのように、車の側を回って私道のほうへ出てきた。そして、庭の柵に寄りかかるようにして、座りこんでしまった。
私は、ドキリとした。
彼の座った位置からは、彼がふっと視線を上げさえすれば、このバルコニーにいる私を見つけてしまうのだ。
私はそのとき、彼らをよく見ようとして手摺りからかなり身を乗り出していたので、いかにも物見高い見物人のようで、失礼だと思われても仕方なさそうな格好になっていた。しかもこんな早い時間にいったい何をしているのかと、逆に怪しまれてしまいかねない。
ところが、状況は私に逃げる隙を与えなかった。私は身を隠すどころか、身動きひとつすることもできなかったのである。人には、避けたいと思うことに限って返って選択の余地も無く起きてしまうということがある。そしてこの場合もその例に洩れなかった。
まるで私の焦る気持ちを感じ取ったかのように、その少年は顔を上げ、私の姿を認めた。私は、彼の視線が私に注がれるのを見た。
彼は最初、ビクっとして目を見開き、驚きのあまり身動きもできないようだった。こんなところに人がいるなんて、思いもしなかったのだろう。
私のほうでは、確かにこの事態に動転してはいたものの、最初からことの成り行きを見ていたという余裕からか、彼に比べれば冷静にものを考えることができたように思う。
それで私は、とりあえず彼から目を逸らすまいと決めた。なぜなら、ここで慌てて引っ込んでしまえば余計に怪しく思われるだけであったろうし、この先向かいの建物に滞在する彼らのうちの一人にでも不審な印象を持たれたくなかったからである。それに、いったん視線が合ってしまった以上、いまさら目を逸らすのも非常に空々しい気がされた。
だが、もし、このとき彼との意志の疎通が成り立っていたならば、私はそのまま軽く会釈でもして、堂々と退散することもできただろう。……しかし、それはそのときにはとても不可能なことだったのである……。
彼の様子を見ると、まだ中学生くらいの、ほんの子供であった。蒼白な顔色をしていて、不健康に痩せていた。だが、その顔立ちには、何か人を惹きつけるような、言葉では説明し難い、不思議な印象があった。
けれど、それとはまたまったく別の理由から、見つめていればいるほど、私は彼から目が離せなくなっていった。
それは、彼の表情のせいであった。
私はいまでも、彼のあのときの表情を、はっきりと覚えている。そしてそれは、三十年を経て、日ごと夜ごと私にまとわりついてきたあの幻影たちの中で、最初に現れたものでもあったのだ。
彼の表情はまったく平坦で、そこには、何の感情も表れてはいなかった。最初の驚愕の瞬間を過ぎてしまうと、突然彼の顔は凍りつき、まるで能面のようにそのまま静止してしまったのだった。
目尻にかけて少し釣り上った切れ長の目は、輝いているように見えなくもなかったが、それでいてどこかビー玉のように虚ろで、人工的な不気味さがあった。そして何よりも、鈍く乾いて、死んでいた。
彼は、置き忘れられた人形のように、一ミリも動かないまま、私を見上げていた。
――いったい、彼の目には、きちんと私の姿が映っているのだろうかと、私は思った。彼は何か考えているのだろうか、それとも、いま彼の思考はすべて停止し、ただ、モノのように、そこに有るだけなのだろうか……。
しかし何も読み取れなかった。そこには何の発信も伝達もなく、代わりにうかがえたのは、人を動転させるほどの虚無、そして、切なくなるほどの無関心だった。
私は、自分自身をも、人間ではない、何かただの物体にでもなってしまったような気がした。すると急に、背筋に冷たいものが走った。
まっすぐに自分を見つめている相手が、本当はまったく自分を見ていないという事実は、私をほとんど恐怖させた。
彼はまるで、死の淵からこちらを見上げている亡者のようであった。
正直に言うと、そのとき私は、本当にそう感じたのだった。そして、彼がいまにも手を伸ばして私の腕をつかみ、彼の住処である暗黒の世界へ引きずり込もうとするのではないかという錯覚にさえ襲われていた。
彼はずっとそのままの姿勢を続けていたが、私はどうしても目が離せなかった。とてもこのままこの場を去ることはできそうになかった。そして、知らぬ間に、どうか、助けてくれ、何か言ってくれ、と、彼に向かって懇願していたのだった。