【長編小説】 春雷 7
真咲と咲子の姉妹の夏の楽しみに、海水浴があった。毎年七月と八月のお盆前までの期間には、定休日である日曜日を利用して、母には買い物に出るのを我慢してもらい、近辺に数多ある海水浴場を〝荒らし〟に行くのだった。母は週に一度、水曜にリハビリに通っているので、買い物や出かける頻度の問題としては、そこである程度解消できていると姉妹は踏んでいた。それに、高齢の母を酷暑の時間帯に表へ連れ出すことは、体力の消耗の心配もあった。
「今年はどこから攻める?」
真咲がウキウキして言う。リアス式海岸というこの地方特有の地形は、実にさまざまなタイプの海岸線を形成している。海水浴場として泳げる海岸だけでも、近場から言って、猿本海岸、波津浜海岸、澄之原海水浴場、下浅海水浴場、桂原海岸、etc……。ひと夏のあいだに海水浴に行くところとして、選び放題である。
「うーん……。いっつも猿本に行くけえ、今年はやっぱ波津浜?」
咲子が答える。おっけー、と、上機嫌の返事が真咲から返ってくる。
この辺の海はどこも透明度が高く、毎年海開きの前には海水を採取して水質検査も行われるので、安心して泳げる。日によって波が高い低いはあるが、危険な魚が近寄ってくることもないし、どこを選んでもまず外れということはない。
海水浴に行くに当たって、姉妹は入念な準備をする。それは、長年の経験を凝縮して磨き上げられた完璧なプランで、もし行き先を山にするなら〝グランピング〟と言ってもいいほどの豪華さを誇る。この数年は、真咲が率先して携行する食べ物を準備しているが、彼女の決めた今年の献立ときたら……。
スモークサーモンのマリネ。スモークサーモンを、薄く切ったタマネギ、赤と黄色のパプリカと一緒に、マリネ液に浸す。それにブラックオリーブのスライスを散らしたものを、ひと晩冷蔵庫で寝かせる。
しめじとエノキダケとエリンギ。これはバターソテーにする。塩、コショウでしっかりと味つけするのがポイント。
お中元にいただいたメロンを角切りにして、生ハムをのせて、〝生ハムメロン〟にする。これはしっかりと保冷を効かせた状態で持って行く。
よく冷やしたスイカを四分の一、ひと口大の角切りにしてタッパーに詰める。海辺の水分補給には欠かせないデザートだった。
インスタントカップヌードルとカップ焼きそば。実はこれがメインディッシュである。姉妹の鉄板は〝カップヌードル〟と〝UFO〟だった。海辺の潮風に吹かれながら食べるそれらの美味しさを知ってしまうと、もう元には戻れない。大型の魔法瓶に熱々のお湯を用意して行く。
忘れてはならないのは、飲み物だった。経験豊富な姉妹は、海辺における水分補給の大切さを熟知している。海水浴場によっては、飲み物を買うために何百メートルも歩かなければならないようなところもあるので、自分たちの居場所で素早く水分を補給できるように、持てるだけの飲み物を携えて行く。その年は、〝グランピング〟気分をより盛り上げるために、ピンク色の炭酸水とシャンパングラスを持って行くことにした。そのほかにも経口補水液、スプライト、レモンスカッシュや炭酸入りのポンジュースなど、飲み物のラインナップは一番多彩だったかもしれない。
その他、冷やすものをぬかりなく冷やすための大量の保冷剤と、浮き輪、日除け用の簡易テント、テントのなかに敷くビーチマット、足元の砂の上に荷物を置くためのゴザ、自分たちの持ち物をまとめたそれぞれのバッグといった、それこそ大量の荷物を引っ抱えて、姉妹はビーチへと降り立つ。
灼熱の太陽に焼かれ陽炎のように立ち上る砂浜の輻射熱をものともせずに、ビーチサンダルでどんどん砂を踏んで行く。じっとしていても汗が流れ落ちるほどの気温の高い日に、炎天下で汗だくになりながら、手慣れた手つきで日除けテントを設営する。
――それから先は、ひたすら楽しい時間の始まりである。日焼け止めクリームをダメ押しで重ね塗りして、水着の上に体の線を隠すためのTシャツを着ると、浮き輪の空気圧を確かめるのももどかしく、子どもたちが戯れる波打ち際へと裸足で走る。まずは海のなかを存分に楽しむのが姉妹の流儀である。
「海水浴の楽しみに年齢は関係がない」
と言ったのは真咲。髪を頭のてっぺんにまとめてお団子ヘアにしている。額の丸い真咲には、そのスタイルがよく似合っていた。
咲子も髪をひっつめにして、後ろにまとめている。経験上、そのほうが海から上がったあとタオルで拭くときに乾かしやすいからだ。
二人の姉妹は、猛然と波に向かって突っ込んでいく。波打ち際の浅いところでは、より深いところに比べて波が高い。腰の辺りで砕けた波が、跳ね上がって顔までびしょ濡れにする。ひゃーっ! と真咲がはしゃいだ声を上げる。それを見て、咲子も満面の笑みを浮かべる。水は冷たくもなく、気持ち悪いほど温くもなく、理想的な温度だった。
その日、海は凪ぎ気味で、全体的に波はそう高くなかった。そのため波打ち際から少し沖に近い深くなったところまで、家族連れで賑わっていた。ほとんどが一緒に来ているらしい幾つかの家族の子どもたちで結成されたグループか、親子連れだった。例年に比べて、父親が子どもを連れて水に入っている姿が多いような気がする。
浮き輪にすっぽりと収まり、夏の太陽の恵みを浴びていると、ふと波打ち際のほうに、ボディボードに乗ってはしゃぎながら砂浜の方向へ流れていく三十代くらいの女性の顔が目に入った。側に男の子と夫と見られる男性がいて、微笑みながら彼女のことを見守っている。
お母さんがあんなにはしゃぎよる。
咲子は真咲のいるほうに漂って行って、耳元で囁いた。浮き輪のなかで素早く体を半転させて、真咲は咲子が指した方向を見やった。
ほんとや。
いいなあー。
妻や母親といった立場を超越して、全力で弾けて楽しんでいる彼女に、姉妹は臆面もなく真っ直ぐな視線を送った。それは、単に憧憬というよりは、より複雑な組成の感情からだった。それは姉妹の持たぬものをすべて持っているように見えるその女性への、軽い嫉妬と、また逆に、彼女の持ち得ぬものを自分たちは持っているのだという優越感、それに彼女の年齢を感じさせぬ活力への純粋な賛美が混じり合ったものだった。
そうやって見ているあいだにも、そのお母さんはボディボードに身を預け、スーッと砂浜の手前まで滑っていってしまった。
海に入ってからもう小一時間が過ぎていた。姉妹は砂浜のテントのなかで待っているよく冷えた飲み物と豪勢な食事に気を引かれてはいたが、記念すべき海水浴シーズンの幕開けの日ということもあって、まだ陸に上がる気になれず、太陽の熱と水の感触を楽しんでいた。
夏本番の強烈な陽射しが顔や腕に照りつけ、前もって入念に塗り込んでおいたウォータープルーフの強力な日焼け止めも、もはや太刀打ちできないような気がされてきた。けれど、それでもまだ姉妹は波打ち際近くで浮き輪に体を預けて、波の揺れに任せ大自然のリズムを感じることを止められないのだった。
すると、思いがけずどこか近い場所から、正午を告げる放送が流れ始めた。それは姉妹の住む地区に流れるのとまったく同じ音楽で、毎日強制的に聞かされているそのメロディーはいつもの日常を思い出させ、折角盛り上がっていたバカンス気分を台無しにしてしまった。
それでもそれは、そろそろ昼食どきであるということを知らせていた。彼女たちの正直な腹時計も、もう海のなかでは充分楽しんだ、と、潮時を告げ始めた。そこで姉妹は言い合って潔く海から上がり、濡れた浮き輪の水滴を手で払うと、小さなテントの脇に並べて置いた。咲子は着ていた白いTシャツを脱ぐと、浮き輪のひとつの上に綺麗に広げて干した。これで、帰るころにはTシャツはすっかり乾いているという算段である。太陽光線と砂浜の熱は、毎年実にいい仕事をした。
真咲が上機嫌な顔をして、保冷剤のいっぱい詰まった断熱バッグから次々と御馳走を取り出してゆく。件のスモーク・サーモンマリネ、キノコのバターソテー、生ハムメロンが昔二人でバリ島旅行に行ったときに買って帰った籐製のトレーの上に並んだ。
今年は趣向を凝らして、シャンパングラスを携えてきていた。折角だから、インスタ映えしちゃおうぜ、と、咲子が提案したのだ。
真咲が丁寧に包んでおいた布から二個の細長いグラスを取り出し、それによく冷えたピンク色の炭酸水を注ぐ。炭酸水は、夏のくっきりとした青空を背景に、シュワシュワッと威勢よく泡を立てた。
「あんまり色がわからんなあ」
「あ。ほんとや」
正午過ぎの陽射しは強すぎて、家を出るときには淡いながらもちゃんとピンク色の色彩を帯びて見えた炭酸水は、スマホのカメラを向けるとほとんど透明に映ってしまった。けれども、野外で見るグラスとそのなかで次々に立ち上っていく細かな泡は、ちょっとしたセレブ感を演出していた。
「本物のシャンパンじゃないけどな」
「ま。雰囲気だけでも。暑過ぎてお酒も飲めん感じやわ。車で来てるから、ちょうどいい」
「かんぱーい!」
カチッ、とシャンパングラスを合わせたあと、冷たく喉をくすぐる炭酸水を飲み干した二人は、しばらくのあいだ、それぞれにスマホを傾けては写真や動画を撮影していたが、それがひととおり終わるとようやく食べものに手をつけた。
「うまっ!」
最初に生ハムメロンを口に入れた真咲が感極まった声を出す。彼女は昔からメロンを愛している。特に今日のような気候で、屋外でよく冷えたメロンの上に生ハムが乗っているとなれば、感激もひとしおであろう。
「きのこ、たまらん」
と言ったのは咲子。シメジ、エリンギ、エノキダケという黄金トリオがバターにまみれて、ピリリと効いた塩コショウが、冷えてしまったバターに固まっているのをフォークでほぐしほぐし食べている。このバターの冷えた感じが案外と乙だった。
前菜終わり。姉妹はある程度それらを胃に収めると、そそくさとメインの準備に取りかかる。別個にしておいた断熱バッグから熱々の湯を入れた魔法瓶を取り出すと、カップヌードルとUFOの包装を破り、蓋を半分ほど開けて慎重に注ぎ入れる。この瞬間にはこの海水浴中で一番神経を使う。真夏の砂浜で火傷など、あってはならぬことだからだ。
今年は少し気分を変えて、カップヌードルはトムヤムクン味にした。来る途中で寄ったコンビニで咲子が買い込んで来たのだ。お湯を入れて蓋をし、その上にトムヤムペーストを乗せたところをまた写真に撮る。
例年、真咲がUFOの係だったが(お互いの好みによって、主に真咲がUFO、咲子がカップヌードルのことが多い)、今年、長年作ってきたカップ焼きそばを真咲は初めて失敗した。記録的な猛暑に晒された砂浜の熱気のせいで頭がのぼせていたのだろうか、お湯をこぼさずに入れることに気を取られるあまり、かやくの袋を取り出すのをすっかり忘れていた。そのせいで、三分経ったときに小さい湯切り穴から湯を捨てるとき、そのかやくの袋が穴を塞いで容器のなかに幾らかのお湯が残ってしまった。真咲は汁気たっぷりの煮浸しUFOを作ってしまったのである。
「嘘やろ……。そんなことって……」
咲子は絶句した。海辺で食べるUFOを、この姉は台無しにした。
「でも……んん! 美味しい!」
意外な味わい方を見つけたと言わんばかりに目を見開いて真咲は叫んだ。失敗してしまった気まずさを隠す強がりかと思われたが、その声音は本気を表していて、何かまったく新しいことを発見して膝を叩いたときのような爽快な響きを含んでいた。新しい感覚の開拓者とでも呼ぼうか、先駆者的な気質が真咲にはあった。
咲子も少し食べてみたが、やはりソースの薄まった煮浸しのUFOに過ぎないというのが正直な感想だった。汁なし担々麺というのは有りでも、汁ありカップ焼きそばというのはいただけない。
ともあれ、無事に食事を終えた二人は、デザートに食べたよく冷えた角切りスイカの余韻に浸りながら、すでに横になっていた。一昨年真咲が二人のために新調した、それぞれ青白と黄白のストライプ柄のビーチマットはタオル地で、汗や塩水を吸い取って焼けた肌を優しく受け止めてくれた。ただ今年は、波津浜の細かい砂のよく締まった地面が固いのだけが難点だった。
段々と太陽が角度を変え、気だるい昼下がりの時刻が訪れてきた。それにつれて気温は上がってきたが、家族連れの子どもたちはまだまだ元気いっぱいで、ワーワーキャーキャーと歓声を上げながら遊び続けている。姉妹はサングラスをかけて寝転んで、それらの音を含む、夏の午後の雰囲気を毛穴に染み込ませていた。
その日は苗場でフジロックフェスティバルが行われていた。三日間のうちのちょうど中日で、七月の初めから楽しみにしていたにも関わらず、昨日の杉山清貴のライブを聴き損ねてしまった姉妹は未練がましくYoutubeのアプリを開き、雰囲気だけでも味わおうと今日のライブ中継に耳を傾けるのだった。でもちょうど外国の知らないミュージシャンが演奏しているところで、二人ともあまり好みの音楽ではなかったので、すぐにアプリを閉じてしまった。姉妹は一度も苗場に行ったことはない。
それから二人は、仰向けになってそれぞれの世界に入っていった。真咲はスマホでLINEとインスタをチェックし、咲子は白い籠バッグのなかから取り出した文庫本を開いた。LINEには真咲の友人たちからのメッセージが溜まっていたし、海辺の風景などインスタにアップするべき写真はまだまだたくさんあった。読みさしのヘミングウェイの『海流のなかの島々』上巻「ビミニ」では、主人公であるトマス・ハドソンの次男が巨大なめかじきと格闘する息詰まるシーンがクライマックスを迎えようとして咲子を待っていた。
テントの布越しに、隣にテントを張っている家族の子どもたちの遊ぶ声が聞こえていた。咲子は右側に寝ていたのだが、彼女の頭のすぐ先で、小さな女の子のはしゃぎ切った大きな笑い声が響いた。狭いテントのなかで身を起こして外を覗いてみると、ちょうど姉妹のテントの真横に、砂を四角く掘った浅い穴ができていた。声を上げていた二歳くらいの女の子が、小さなバケツを持って波打ち際まで走り、バケツいっぱいの海水を汲んでまた戻ってくると、おぼつかない仕草で穴のなかに注ぎ入れた。その子は楽しくて仕方がないといった風に、小さな足をばたつかせながら小走りで走り、さっきからそれを繰リ返しているのである。
プールを作ろうとしているんだな、と咲子は思った。けれども幼児の手で運べるくらいの小さなバケツでいくら水を汲んできても、プールにはなかなか水は溜まらなかった。それに、汲んできた水は入れる端から虚しく砂に吸い込まれて消えてしまうのだった。
女の子がまた耳をつんざくような奇声を上げた。幼児特有のその細く甲高い声は、青く晴れ渡った空に向かって大きく拡散していった。街中で聞けばうるさいと感じるのかもしれないが、このときはまったくそう感じなかった。夏の砂浜で過ごす午後は、人を大らかな気分にさせるのかもしれない。
咲子は再び横になって本を開いた。〝パパ〟が操舵室で待っている。それに、次男のデイヴィッドがいま大変なことになっているのだ。なまじっか巨大めかじきなんかを引っかけてしまったせいで、この子は手足を血みどろにしながら六時間半にも及ぶ大自然のモンスターとの格闘を強いられることになる。兄弟はもとより、周りの大人たちも総員でデイヴィッドを援護する。
咲子はこの小説を以前一度読んだことがあった。数えてみると十年以上前のことである。物語のあらすじはぼんやりと覚えているのだけれど、ヘミングウェイの簡潔で男らしく引き締まった文体によって表される海の上での男たちの真剣勝負の光景は、今回読んでいるあいだのほうが、より鮮明にその情景を想像することができるような気がした。
この十年、私はまったく成長しなかったというわけではないんじゃないかな、と、ふと咲子は思った。
本を置き、iPodを取り出してイヤフォンを耳に入れると、以前自分で作ったコンピレーションをかけた。それは全編ブラジルのチルアウト系の音楽で、その緩いけれどもスタイリッシュな曲の連なりは耳を絶妙な感じに刺激して、ビーチでの読書を心地よいものにした。
夏の昼下がりの気だるさと熱波のなかで半ば朦朧としながら、咲子は小説の世界に戻っていった。