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【短編小説】 プールサイド

 淡い水の色が段々と深くなっていく底には幾つもの水中ライトが設置されていて、幻想的な灯りをにじませていた。宿泊客たちがディナーのためにはけていった午後八時の屋外プールは人気ひとけがなく閑散としている。
「お飲み物でもお持ちしましょうか、マァム?」
 と丁寧に尋ねてくれたボーイにミネラルウォーターを頼んだ。このプールは二十四時間利用出来ます、時間を気にせず心ゆくまでお楽しみ下さいと彼は言った。
 夕方五時過ぎに飛び込みでチェックインした客なのに、嫌な顔ひとつせず温かくもてなしてくれる。ブルーマウンテン国立公園内に建つ老舗のホテルがくれたホスピタリティのおかげで、高地のユーカリの森から発散される冷涼な空気が少し温かくなった気がした。
 さっきから、一定の間隔を置いて水音がしている。デッキチェアにもたれていた私は力なくそちらのほうへ顔を向けた。
 マハが、文字通り水を得た魚のように素潜りの動きを繰り返しているのが目に入った。まだ少年のようなあどけなさが残る顔が滑らかな水の被膜を破って浮かび上がったかと思うと、体を折り曲げるようにして瞬く間に水面下に消えていく。その姿は海を自由自在に駆けるイルカの動きを連想させた。
「マナミもおいでよ!」
 水から顔だけを出して立ち泳ぎしながら呼ばれた。馬鹿、冷たいよ。南半球にあるオーストラリアでは季節は反転し、今は冬だ。しかも夜、八時を回っている時刻なのだ。ケアンズに着いたら海水浴をする予定だったので水着は荷物の中にあるが、今日ここでプールに入るつもりはなかった。
「温水プールだから、気持いいよ」
 温水だか何だか知らないけど、入らないよ。上がってから、きっと風邪を引いてしまう。私はデッキチェアから身じろぎもせずそう応えた。
「何だ、弱虫。いいよ、じゃあひとりで遊んでるから」
 そう言うと、マハはまた元のように潜水士のような素振りで大きく息を吸い、頭から水底に潜っていった。
 さっきからそのようにして、いつ終わるともなく水と戯れているのだ。海辺育ちの彼が水の感触に飢えている気持はわからなくもないが、それにしてもよく飽きないものだ。
 呆れながら姿勢を戻すと、急に深い疲労感を覚えた。

 オーストラリアに行く、と言い出したのはマハだった。何でもシドニーに従姉が暮らしているとかで、その気になれば訪ねていって泊めてもらうことも可能だという。私は気が進まなかった。元々海外に旅行に行くなどということも考えられなかったから。
 それでもマハは引き下がらなかった。彼はいつも言い出したら聞かないところがある。若さの成せる技だ。目の前に広がるチャレンジすべき冒険に満ちた海原に、漕ぎ出したいという衝動とパワーを抑えきれないのだ。
「じゃあ、いい。従姉のところに泊まらなくてもいいよ。その代わり、二人で沢山旅をしよう」
 大きな黒い瞳を輝かせながら、マハは言った。旅をするのは私も好きだ。いいわね、と私は言った。
「でもその代わり、キツイ旅はゴメンよ。あなたみたいな体力は無いんだから」
 急に思い立って私は言い足した。釘を刺しておかないと、まだ二十四歳になったばかりの若者はバスでオーストラリアを縦断などという無茶なプランを立てかねない。ひと回り以上の年の差は、時に私をまごつかせる。
「わかった。まかせて!」
 私が旅行に行くのを承諾したことで、マハはいっそう瞳を輝かせて喜んだ。
 
 最初に出会ったのは、彼の故郷でだった。インドネシアのアチェ州、バンダ・アチェという街にほど近い小さな海辺の集落だった。日本語教師の資格を取ったばかりの私は海外枠の仕事を斡旋する派遣会社に登録して、需要の多い東南アジア地域に希望を出していたが、会社が紹介してきたのがそこだったのだ。
 海外で働くなんて初めての経験で、何もかもが新鮮だった。海辺の集落の人々は想像した通り皆素朴で人懐っこかった。日本から来た言語教師に一定の敬意を払ってはいるようだったが、ほどなくそれを上回るほどの好奇心を見せ始めた。
 私の教室の生徒は、日本語を学びたい若者を中心とした十五人ほどの村人たちだった。中には終戦後も自らの意志で当地に残留した日本兵の孫に当たる人もいて、確か三十代後半の年齢だったと思うが、片言の日本語を既に知っていた。彼には息子がいて、いつも親子で教室に顔を見せていた。
 その息子の方がマハだった。マハルディカという本名を縮めてみんなからマハと呼ばれていた。
 その村での二年間の契約を終えて私が日本に帰ると、マハは仕事を求めて東京にやって来た。勉強した日本語はまだたどたどしさが残っていたけれど、それでも何とか都内のベトナム料理店に就職が叶ったらしい。
「インドネシア料理の店で働きたかったけど、思ったより少なかった。ベトナム料理の方がイメージが大きい(こんな風にマハは独特の言い回しをした)みたいで、お店がいっぱいあったから雇ってもらいやすかった」
 東京に出てきたばかりのマハが連絡をくれて、初めて二人で錦糸町の居酒屋で会ったとき、彼はそんな話をした。
 更に彼はこんなことを言った。
「不思議だけど、僕を見るとみんなベトナム人みたいだって言うの。まあだから店になじみやすかったんだけど」
「へえ、そっか」
 私は改めて興味深く彼の姿を眺めた。確かにマハは、多くのインドネシア人に比べると色白で、顔も丸い。アチェ州の人たちに特徴的なしっかりした骨格や精悍な顔立ちから、角を削ぎ落しならしたようにその輪郭には柔和さが漂っている。彼の曾祖父が日本人であることのあかしなのだろう。けれどその効果によってベトナム人のように見られるという事実は面白かった。
 
 私たちが本格的に付き合い始めたのは、それから半年ほど過ぎた頃だった。年齢の違いに戸惑う私を強く押し切ったのは、マハの真面目さとそのブレない信念だったように思われる。
 マハは自分の仕事にとても熱心に取り組んでいて、先輩から押しつけられる嫌な仕事(例えば冷凍エビの殻むきとか)も文句ひとつ言わずやっていた。店の清掃からホールの接客、配膳にレジ業務まで、その勤勉な仕事ぶりはベトナム人の店主から褒められるほどだった。私も一度だけマハの勤める店に行ってみたことがあるけれど、そのときの彼の働きぶりは見ているだけでも気持のいいもので、正直非の打ちどころがないと思ったものだ。
「日本人の血かな、そういうところ」
 私がひやかし半分でそう言うと、
「わかんない」
 と百点の笑顔で返してきた。
 実際、マハが自分の中に日本人の血が流れていることをどれくらい意識しているのかはわからなかった。彼は楽器の弦を弾くような響きを持つ美しいアチェの言葉を愛していたし、あとから学んだ日本の言葉のほうには、何か身につかないよそ行きの着物を着せられているような気張りを感じているように見えた。でも、ふとした折に彼の中に見え隠れする日本のエッセンスを垣間見るとき、私は無意識にほっとするような親近感を覚えるのだった。
 思えば、それが私を彼に繋ぎとめて離さない一番の要因だったのかもしれない。
 
 シドニー空港に着いた飛行機の中で、ひと悶着があった。出発の前に私の姉がマハにとプレゼントしてくれたクッキーを「ひとつちょうだい」と袋から出そうとすると、マハは袋を奪い取り、顔を真っ赤にして怒り始めたのだ。
「何よ、そんなに怒らなくてもいいじゃない」
 私は驚いてそんな彼をなだめようとした。けれどマハはすっかり機嫌を悪くして、そっぽを向いて口をきこうともしない。
 私はクッキーを食べてしまったわけでもなく、ただ袋を開けようとしただけだ。それなのにそうまでして怒る理由がわからない。
「何よ、何でそんなに怒っているの?」
 再び問い質した。するといまだ腹を立てた声でマハはこう答えた。
「お姉さんが、僕にくれたクッキーだ」
 彼がクッキーというものに目が無いことはわかっていた。それでもお腹がすいた旅の相棒にひとつ分けてくれるくらいは構わないだろうと思った私は迂闊うかつだったらしい。姉がマハのためにわざわざ渡してくれたという気持が、彼にとってそのクッキーの価値を殊更ことさらに高めていたことに思いが至らなかったのだから。
 マハはそういうところのある子だった。
 オーストラリアを旅したらね、日本に帰る前にアチェの村に寄ろう。
 旅のプランを立てているとき、笑いながらマハは言った。
 旅行に出る前に、プロポーズは受けていた。返事を渋る私の手を強く握ると、マハはこう言った。
「村に着いたらすぐ両親に紹介する。正式に、僕の奥さんになる人として」
 彼の目に発した真剣な熱は、こちらにも伝染してきそうだった。そのせいで、つい私は気のない返事をしてしまった。
「きっとだよ」
 マハは嬉しそうに笑った。
 
 ――パシャン、パシャン、と水しぶきが上がる。私はミネラルウォーターのキャップを開け、ポーチから錠剤を出して口に含んだ。白い錠剤は無機質な固い感触を残して喉の奥に落ちていった。
 マハはまだ水の感触を楽しむことを止める気になれないらしい。何度も、何度も、水しぶきが上がる。
 私はそんな彼の様子をじっと眺め始めた。すると、まるでそれに気づいたかのように潜水したままマハは浮かんでこなくなった。十秒……二十秒。待って。長すぎる。
「マハ!?」
 私は立ち上がって叫んだ。それでも夜のプールの水面は静かなままだ。水底から上へ向かって照らしているライトの光が乱反射して、水の中がよく見えない。
「マハッ!!」
 私は金切り声を上げた。喉が裂けるような、胸が裂けるような……。これまでの人生で一度も出したことのない声だった。自分が上げたその声に、私は自身で驚いていた。
 やがてプールの端を見慣れた手がそっと触るのが見え、マハはゆっくり浮かび上がってきた。どうやらイルカごっこは長い距離を行く潜水遊びにシフトしたらしい。私のあの声は彼に聞こえなかったようだった。
 マハは息継ぎのために一度口を開けて深く息を吸い込むと、こちらを見向きもせず、またもや瞬く間に水面に没した。細っこい臀部と長い脚が一瞬水面に踊り、消える。
 そのまま長い息を引き継いで、ライトアップにきらめく夜のプールの底をぬめぬめとデフォルメされた姿が滑っていく。
 不意に、アチェの村の海の光景が思い出された。マハはあの美しい海辺で生まれ、海に育まれてここまで育ったのだ。あの村では海面に反射する光がひどく眩しかったことを思い出した。潮の香り。ゴツゴツした岩浜に集い海水浴を楽しむやさしい人たち。人々の顔の上に屈託という文字は無い。ただそこで、生命いのちという生命いのちを生きている。
 晴れた空。そよぐ風。
 マハの村が、マハや彼らがいま目眩めまいを覚えるほど眩しかった。
 ブルーマウンテンから吹き下ろしてくるユーカリの冷涼な風に吹かれながら、私は何が間違っていたかに気がついた。
 
 そっと目を閉じると、心が決まった。
 明日になれば、きっと話せるだろう。あの村へ彼と一緒にかえり、彼と生きたいということを。そしてこの数ヶ月の間、主治医とさんざん話し合ってきた私の余命についてのことも。

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