この夏は「自分のやりたいこと」にブレーキをかけないことにした
最近エッセイ等の中で、「この夏はなぜか元気」とよく書かせていただいている。本当に、理由はわからないが今年の夏、確かに私は元気印だ。
去年の秋からnoteに投稿を始めて、今年の1月31日以降は小説やエッセイ、詩やホラー短編(怪談)、読書感想など種々取り交ぜてになるが、何らかをほぼ毎日欠かさず投稿し続けてきた。
今年は創作大賞2024に恋愛小説を2編、ホラー長編小説を1編応募することが出来たし、そういった意味での充足感に元気づけられている部分も多々あるかもしれない。
けれど、それだけではない「何となくこれのせいじゃないかな」というものが、自覚としてある。
それは、思い切ったというか振り切ったというか、今年の夏は〝アクティブ〟に過ごすことを自身に命じたからだ。
「今年の夏は、〝やりたい!〟と思ったことを我慢したり躊躇したりせずに全部やる」と決心した。
noteの初投稿記事『初めてのソロキャンプ…2つの邂逅とひとつの閃きの覚え書き』にも書いた通り、私は去年50歳の節目を迎えた。人生100年時代、まさにこれからはリアルな後半戦となる。
この〝人生半分が過ぎた〟という感覚は、私の中にある潔さのようなものを生じさせたように思う。この峠とも言える地点に到達する以前の私は、周りの顔色をうかがい、まず相手の出方を見て対策を講じ、他人の欲するものにヒントを得て初めて自分の行動や方向性を決めていた。まさに他者に身を委ねる人生だった。
それが50歳という年齢を境に、必然的に変化を迎えたという気がしている。
そして実は、そのきっかけとなったことがある。
ある時ある名言が心に刺さり、以来私はこれまでの自分の生き方について考えるようになった。そしてそれは一人の人間の生きる道として、何か不自然な状態にあるのではなかろうか、という疑問が湧いたのだった。
その名言は、アニメ『鬼滅の刃』で主人公竈炭治郎が水柱冨岡義勇に初めて出会った時に言い放たれる一言だ。
「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」
これである。
私のみならず、この鋭い一言が胸に刺さった人は数多くいるのではないだろうか。
日本の社会において、判断を周囲に任せ、流れるようにゆるりと暮らしていくのは敵も作らず確かに楽である。
我々日本人は〝和〟を以て良しとし、互いに思いやりながら共存共栄していく道を好む。そしてそれは、何より民族的に性に合っている。
けれど、生き死にのことについて……
つまりここでは実際に生物学的な「生きる」と「死ぬ」ということではなく、
「自分の人生を自分の思うままに自分らしく生きていく」か
「他人の望む人生を自分を殺して死んだように生きていく」か
という意味においてだが。
人生の折り返し地点に立った時、この意味において「生殺与奪の権を他人に握らせ」ない生き方を、これからはしていこうと思ったのである。
この言葉が心に刺さり、自身の中で徐々に消化吸収していく過程で、私の中に涼しい風が吹いた。
「これからは、自分の意のままに生きていこう。てか、そうしていいのだと、自分に許可を出そう」
多少は勇気のいることであったが、やってみると案外うまく流れてくれた。
現実を自分で作り出すとはこういうことか……と、目からウロコが落ちたような気がしたものだ。
そんなわけで、この夏私は精力的に小説やエッセイや詩などを書き、気持ちが向かえばアウトドアに積極的に出かけている。
来月行く予定の高山でのソロキャンプは今からすでにものすごく楽しみである。何を持って行こうか、向こうで何を飲もうか何を料理して食べようか……考えるだけでもうソロキャンプの楽しさは始まっている。
更に、明日は日曜日。姉と計画して、川遊びに出かける予定である。
こんな意識状態が、心地よくて気持ち良くてたまらない。
noteもこれからも精力的に投稿していきます。
今後とも、どうぞよろしくお願いします。