【エッセイ】 アンネ・フランクが物書きに伝えてくれたこと
久しぶりにペンを執った。
書くことが本当に好きなのに、この頃ちっともものを書かない。
この場合の〝ものを書く〟とは、〝自分の心の中にある真実〟を赤裸々に書き表すということである。
もっと無理にでも時間を作って書かなければ。
と思ったのは、ある映画を観たことがきっかけだった。
それは『アンネの追憶』という映画だ。
ハネリという親友と、アンネの父であるオットー・フランク氏の記憶を頼りに作られた映画だそうで、Wikipediaに
〝登場人物や描かれたエピソードについては、エンドクレジットにおいて「歴史的事実から想像し、創作されたものである」〟
とある通り、映画の中の(特に収容所における)シーンが実際にあったかどうかはわからないとされている。
だが、アンネを取り巻く状況や人々のことを考えると、作品中のそれぞれのエピソードには、「きっとこうであっただろうな」という説得力がある。
例えば収容所内でアンネと一緒にいた母エーディトが、自分の食料と引き換えにアンネの為に小さな紙切れとちびた鉛筆を手に入れてきてくれるというシーンがある。
アンネが書くことをどれだけ好きだったかよく理解している母なら、これくらいのことをしてくれただろうと想像できる。
ちなみにエーディトは収容所内で亡くなっている。
作中には、更にこのようなシーンもある。
収容所に入れられた後、アンネ達ユダヤ人は文字を書くことを禁じられた。
文章を書くことが好きで、隠れ家生活の間も楽しみながらずっと日記を書いていたアンネは、文字を書きたくてたまらなくなる。樽に張った氷の上に積もった雪に、食事用のスプーンで「パパ私はここよ早く会いたい」というような短い文を書くのだが、それを女看守に見つけられてひどく殴られる。
どんなに辛かっただろうな、と思った。
そして、その映画を観て以来、不自由な隠れ家生活の中で毎日毎日日記を書くことに没頭していたアンネのものを書く姿が、時々脳裏にふっと浮かぶようになった。
物書きにとって。
思っていること、感じること、こうなりたいと思うことを自由に紙の上に書いていくことは、他にないくらい幸せで、価値のあることなんじゃないのかい?
そう自分に問いかけると、アンネ・フランクという少女の伝えてくれたことのすごさをまざまざと実感するのだった。
これからもっと、紙とペンを執り、真摯に自分と向き合う時間を持とうと思う。