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霧の朝 シロクマ文芸部



昨日の月   【707 字】

霧の朝を迎えて、ぼくは兎にも角にも胸を撫で下ろした。
昨夜の月があまりにも不気味だったのだ。斑らに並んだ秋の雲の陰から時折顔を覗かす満月に近い月は、その体を暗い虹色で包んでいた。

昨日という日はそもそもおかしな日だった。退社したぼくは地下鉄の入口に向かっていたが、どこまで行ってもその入口が見当たらなかった。毎日のように通う、なんなら目を瞑ってでも歩けるルートを、どうして目を開いたぼくにたどり着けなかったのか。
交差点では信号無視が横行していた。人は勝手に道を渡るし、車は躊躇なくそこを走り抜けた。人と車はそれぞれ次元の違う道にいるかのようにお互いをすり抜けた。
ぼくはパニックに陥りかけていた。もう叫ぼうと腹に力を込めていた。どうして叫ばなかったのだろう。それを夢に違いないと思うことにしたからか。

地下鉄の駅の数にして9駅分の距離をぼくはなんなく歩いて帰った。
見上げた空にはその月が君臨していた。月だけに存在感があった。ぼくが距離をものともせず帰り着けたのは、この月のお陰だと言っていい。あまりに異様だった。いつもより何倍も大きなその月は、ぼくを飲み込もうとしているようにしか思えなかった。
思えば何もかもが初めて見る景色だった。ぼくの家でさえ、ぼくの知っている家ではなかった。それでもぼくの家だとわかった。
ぼくは熱にうなされているに違いなかった。

ぼくは苦もなく夜通し月を眺め、霧の朝を迎えた。霧の中にあったのは、ぼくは知らないが懐かしさだけがあるアメリカ北部の村だった。
ぼくはビーズで長い髪をまとめ、顔を赤と黄色で着色した年老いた無骨な女の言葉に、己の来世を嘆く長老の娘だった。

ぼくは今、そこにいる。その来世がぼくだ。
     了



小牧部長さま
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