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映画『燃ゆる女の肖像』感想 哀しくも完璧に美しい時間


 芸術的という意味では今年トップクラスの作品です。ただただ、カッコ良かった。映画『燃ゆる女の肖像』感想です。


 18世紀のフランス、ブルターニュの孤島に画家のマリアンヌ(ノエミ・メルラン)が訪れる。マリアンヌは貴婦人から娘エロイーズ(アデル・エネル)の見合いのための肖像画を依頼されていた。だが、当のエロイーズは自身の結婚話を喜んでおらず、前任の画家もエロイーズに拒否され、絵を完成させることは出来なかった。マリアンヌは画家であることを隠し、エロイーズの話し相手になりながら、彼女を観察し始める。
 やがてマリアンヌは、エロイーズの肖像画を完成させるが、真実を知ったエロイーズは、その絵に描かれているのは本当の自分ではないと、彼女の作品も拒否する。描き直しを申し出るマリアンヌに、エロイーズは意外にもモデルとなることを承諾する。
 肖像画を完成させるまでの5日間、マリアンヌとエロイーズ、そしてメイドのソフィ(ルアナ・バイラミ)の女性3人で過ごす日々は、彼女たちにとって掛けがえのない美しい時間となっていく…という物語。

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 セリーヌ・シアマ監督によるフランス映画で、2019年のカンヌ国際映画祭では、脚本賞とクィア・パルム賞の二冠に輝き、世界の各映画賞でも受賞ラッシュとなっている評価の高い作品。

 美術絵画がテーマの一つになっているだけあって、やはり映像の美術性が物凄く高いですね。要所要所の1シーンの構図が、名画のような美しさを持っている場面があり、思わずハッとさせられます。ものすごく計算高い画面作りをしていて、作品として、とてつもないカッコよさを感じました。
 序盤の脚本からは静謐な雰囲気が続くので、物語よりはこの計算高い画面の美術性を楽しむためのものかと観ていると、中盤以降、この名画のような場面の記憶が一気に物語として集約されていくんですね。

 物語としては、マリアンヌとエロイーズの、女性同士の愛を描いていますが、テーマとしては、抑圧されてきた女性の、声にならない声というものなんだと思います。
 まず、男がキャラクターとして登場してこないのが大きな特徴ですね。男性で名前のある人物はおらず、エキストラ的な形でしか登場しません。終始、女性だけの物語で終着させています。

 冒頭、マリアンヌが島に上陸する際、水夫が荷物を運びますが、砂浜まで持ったらその場に置いて、何も言わずに去ろうとするシーンがあります。かなり不親切な人間に映るんですけど、これがすごく象徴的なんですよね。

 フェミニズム的な物語が描かれる時、大抵は女性を踏みにじろうとする悪役としての男性が描かれて、そのキャラクターに批判の眼が向けられることになるんですけど、今作ではそういう特定の男性を人格があるキャラクターとして描かないことで、女性を抑圧しているのは男性優位の慣習や社会制度などの仕組みそのものということを強調しているのだと感じました。
 この作品に出てくる男性たちは、女性たちに悪いことをしているという意識は何も無いんですよね。この荷物を運んであげない水夫も、エロイーズが名前も知らない男に嫁ぐのも、マリアンヌが父の名義で絵を描いているのも、全てはそうしてきたからだけという仕組みによるものなんだと思います。
 『グリーンブック』という映画における黒人差別での描写もそうなんですけど、差別している本人は悪気がないというか、いたって善人なんですけど、それが一番問題なんですよね。

 同性愛をテーマにするなら、マリアンヌとエロイーズの関係性だけを魅せるはずですが、それだけではないフェミニズム要素も大きなテーマになっています。メイドのソフィという人物もその役割なんですね。
 彼女の妊娠が発覚して、堕胎手術をするというエピソードがあることで、より一層、男性が味わうことのない女性だけの苦労が強調されています。もちろん、妊娠自体が女性にとって悪いことというわけではなく、それだけの苦痛がありながら、女性の地位が保障されていないという当時の仕組み、現代まで連なる意識が悪であるということなんですね。

 演技の面で、欠かせないのが「視線」を強調する眼の演技。マリアンヌが絵を描くための観察の視線、エロイーズの女性として抑圧されたことに対する怒りの瞳。アデル・エネルが素晴らしい眼をしているんですよね。
 その二つが交差して、恋愛の視線という同質のものになる中盤から、別離する瞬間の視線が、エロイーズからマリアンヌに向けられているという入れ替わりは、物凄く巧みな脚本です。それを強調させるために挿入されるギリシア神話のオルフェウスのエピソードも、伏線として抜群の機能を果たしています。
 離れた後のエロイーズの視線が、絵画になってマリアンヌへのメッセージとなっているのも、むちゃくちゃカッコいい演出ですね。

 劇中で使われる音楽はほとんどなく、中盤での島の祭で歌われるオリジナルの民族音楽と、ヴィヴァルディの協奏曲『夏』が劇中で登場するだけという静かさです。これにより美術館で有線音楽が流れていないのと同じような効果になっているように思えました。劇伴を極限まで抑えることで、画面上の美術性が高まるように感じます。

 そして、ヴィヴァルディの『夏』がラストシーンにも繋がっていくんですね。このラストのエロイーズの表情が圧巻なんですよね。どういう状況かはネタバレになるので避けますが、ここの表情に、抑圧された女性の怒り、哀しみを感じさせると同時に、それを知ったが故の、芸術の美しさを理解することが出来た喜びまで表現されているように思えました。台詞などの言葉だけでは、とても表現できない複雑な感情でした。このシーンに全てが集約されていて、圧倒的なラストになっています。
 「百合もの」と軽いくくり方は出来ない、名作クラスの素晴らしい作品だったと思います。


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