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伊藤紺『気がする朝』-曙光が地平を遥か遠くまで

歌人・伊藤紺さんの第3歌集『気がする朝』にある「安心感」について、「髪」をキーワードにこれまでの歌集の変遷を辿りながら記しています。
※この記事は、ポッドキャスト「たるいといつかのとりあえずまあ 8月下旬のラジオ「偶然と想像」」の内容を再構成したものです。

1.

口ぐせをうつしあったらばらの花いつまでもいつまでも残るよ

伊藤紺『肌に流れる透明な気持ち』(私家版、15p.)

あなたと、関係してしまったことについての歌だと思った。たまたま出会い好意を持ち合ってしまった、もうわたしは出会った後のわたしになってしまっていて、口ぐせは身体に刻まれてしまった、その残酷ともいえる事実を「ばらの花が残る」という、美しい比喩とともに認めている歌だと思った。
伊藤紺さんの第1歌集『肌に流れる透明な気持ち』は「あなたとの関係に切実なわたし」が描かれた歌集だと思う。あとがきに「「肌に流れる透明な気持ち」というのは、わたしの中のひとつの気持ち。優秀な営業として、普段から外界とうまくやってくれている肌にさらさらと流れる静かな気持ち」と書かれているように、外界=他者との関わりによって、わたしの肌に流れている透明な気持ちに色が付き、怒ったり、喜んだり、悲しくなったりする。伊藤紺さんは「文章で大事なのは、正直さと、切実さだ」とインタビューで話しているけれど、その文章に対する正直さと切実さは、この歌集においては、わたしの感情を動かす(色をつける)あなたとの関係に向けられているように思う。

きみに会うときのわたしが好きなのに あなたらしくとか言わないで

伊藤紺『肌に流れる透明な気持ち』(私家版、31p.)

フラれた日よくわからなくて無印で箱とか買って帰って泣いた

伊藤紺『肌に流れる透明な気持ち』(私家版、12p.)

2.
一方、2023年の12月に発売された第3歌集『気がする朝』。

この人じゃないけどべつにどの人でもないような気がしている朝だ

伊藤紺『気がする朝』(ナナロク社、24p.)

タイトルの由来ともなっているこの歌からは、「あなたとの関係に切実なわたし」は全くと言っていいほど感じられず、むしろ、そこから脱却している作中主体=わたしの「あなたへの無関心」とも言えるような感情が立ち現れている。このわたしは、フラれた日に「無印で箱とか」買うわけがない。もし買うとしたら、それは前々から予定していたものとして無印で箱を買うだけだろう。なんて、思わせるような、重たくどっしりと構えているような、自立した強さ、安心感がそこにはある。

おっきな海みたい柔道部がそろってごはん食べてるところ

伊藤紺『気がする朝』(ナナロク社、42p.)

ひいおじいちゃんが大男と知って巡りはじめる大男の血

伊藤紺『気がする朝』(ナナロク社、95p.)


思えば『気がする朝』にはそうしたずっしりと構えた「安心感」を歌った歌が散見される。
『肌に流れる透明な気持ち』から『気がする朝』に至るまでの変遷を、わたしなりの見解を、ここに書き残しておきたい。

3.
伊藤紺さんの3つの歌集を通底するモチーフは「髪」だと思う。女性の髪は言うまでもなく「女性らしさ」のシンボルになってきた歴史があり、それらは現代においては薄められてきたように思われるけれど、決してなくなっているものではないように思う。「長い髪と短い髪、どっちがいいと思う?」恋人にそんな風に聞くとき、「髪」が女性のいわゆる「タイプ」の一因であることが示されているし、髪をバサっと切ることが、失恋のアクションとして認知されているのも、それがひとつの「女性性」を象徴しているからだろう。


きみが髪を乾かす
さらさらとこぼれる
会社やめたいんだ

伊藤紺『肌に流れる透明な気持ち』(私家版、3p.)

最初の歌集『肌に流れる透明な気持ち』の1首目は「髪」の歌だ。朝シャワーを浴びたのだろうか。「きみ」がドライヤーでわたしの髪を乾かしてくれている(おそらくわたしの背後にきみがいる。他の人の髪をドライヤーで乾かすときって背中に回ると思う、ちがうかな)。きみはわたしの毛先を手で持って、丁寧に乾かしている。わたしは窓の外の景色をぼんやりとみているだろうか、肌にあたる乾いたさらさらとした髪の感触を感じながら、わたしは「会社やめたいんだ」と心のどこかで湧き出たおもいを不意につぶやく。……
この歌で、わたしときみを物理的に繋げているもの、それは髪だ。抱きしめあっているでもなく、手を繋いでいるでもなく、ドライヤーをかけるきみがわたしの髪を手で持っている。冒頭で述べた、「あなたとの関係に切実なわたし」の情景的な象徴として、髪は両者の架け橋になっている。
次の髪の歌も同様に、髪があらわすのは「あなたとの関係に切実なわたし」だ。

前髪にかけてきた気が遠くなるほどの時間の一部にあなた

伊藤紺『肌に流れる透明な気持ち』(私家版、5p.)

4.
思えばタイトルからしてその違いがあらわれていると思うのだけれど、第2歌集『満ちる腕』は、第1歌集とはむしろ真逆にベクトルが向いた、「わたしになることに切実なわたし」が描かれている歌集だと思っている(あなたが色付ける「透明な気持ち」から、その余白を無くすように「満ちる腕」へ)。より正確に言えば、作中主体=わたしはひとりの人間としての確かな輪郭を持とうとしている。あなたとの関係によって揺らぐことではなく、あなたと関係するわたしであっても、揺れ動かないことの方に切実さを感じている。

泣くほどにわたしの純度が増していく
わたしのベッドはわたしの匂い

伊藤紺『満ちる腕』(私家版、17p.)

たぶんもう分かり合えない水中で見ていたきみの眉毛のかたち

伊藤紺『満ちる腕』(私家版、43p.)

第1歌集と同じく、第2歌集にも髪がテーマの歌がある。

髪の毛が朝日を浴びて透き通る
きれいなときに見ていてほしい

伊藤紺『満ちる腕』(私家版、32p.)

この歌で描かれているわたしはひとりだ。第1歌集の歌ように「前髪にかけてきた時間」に想いを馳せ、そこにあなたとの関係を感じるのではなく、ただ、確固たるわたし=「きれいなとき」のわたし、であなたと関係したい、という願望が描かれている。

また、歌集内に書かれた詩「髪」では、第1歌集では「あなたとの関係に切実なわたし」の象徴だった髪を切ったことが明かされる。

あの頃、髪が長かったのは
お守りのようなことだったの

伊藤紺『満ちる腕』より「髪」(私家版、50p.)

「あなたとの関係」から「わたしになること」へ。ふたつの歌集はわずか1年のスパンで出版されているけれど、そこには確かな切実さの方向性の違いが、変化の隔たりが存在している。

いちばんまっさらな心拍でいられるのはひとりだけだと思うの
たまにふたりでいられたとしても
そのうちきっとずれるから

伊藤紺『満ちる腕』より「あのね」(私家版、82~83p.)

5.
歌集のあとがきには、小説やエッセイなどよりも遥かに、歌人の信念のようなものが書かれていることが多い。そこにはその歌人が、その歌集に込めることができた、それこそ切実な「かけがえなさ」のようなものが煌めいている。

私にとって歌とはずっと、失われたもの、決して手に入らないものへの思いを注ぎ込む器だった。

松野志保『われらの狩りの掟』あとがきより(ふらんす堂、238p.)

この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。

千種創一『砂丘律』あとがきより(ちくま文庫、259p.)

伊藤紺さんの第3歌集『気がする朝』のあとがきは、こんな風に始まる。

中学の頃からほぼずっとロングヘアだった。

伊藤紺『気がする朝』あとがきより(ナナロク社、117p.)

そこで語られるのは「髪」にまつわるエピソードトークだ。数年前、いちど髪をばっさり切ったこと、それからもう一度伸ばしはじめたこと。伸びてきた髪をショーウィンドウや鏡で見つけ、願いが叶っている自分と出会うこと。

短歌を書いているとこういうことを「日常の些細な喜び」と言われることがあって、いまだに慣れない。自分にとっては、これが100%の満足だから。

伊藤紺『気がする朝』あとがきより(ナナロク社、117p.)

あとがきはこんな風に終わる。

6.
(伊藤紺さんと詩・歌の作中主体を同一化することの是非はともかく)伊藤紺さんにとって再び伸ばしはじめた髪の毛は、第2歌集でいう「あの頃、お守りのようだった」髪の長さに戻ろうが、第1歌集のような、「あなたとの関係に切実なわたし」の象徴ではなくなっている。それはわたしが、わたしのために、伸ばしている髪であり、あなたがどう思おうが、全く関係がない。
伊藤紺さんが言葉にする切実さの眼差しは「あなたと関係すること」から「わたしになること」へ、そしてこの第3歌集では、今までのそういう、何かになろう、何かであろう、という意思を全部ひっくるめた、「ただわたしである」ということへと向けられているように思う。「どういうふうになりたい」ではなく、というか、なりたいものを抱えた自分も全部受け入れて、ただ髪が伸びていく、その自然とすぎていく毎日を100%の満足として肯定すること。わたしがそのまま、ありのままのわたしであることを認めること。

なぜだろう
わたしを狂わせるものを
わたしの人生は受け入れている

伊藤紺『気がする朝』(ナナロク社、22p.)

巨大花火上がってきっと思い出す
わたしという生き方のすべて

伊藤紺『気がする朝』(ナナロク社、89p.)

7.
あえて極端な言い方をするけれど、若者の恋愛を書く人として伊藤紺さんは知られているように思う。し、確かに第1歌集の「あなたと関係すること」というテーマも、第2歌集の「わたしになること」というテーマも、恋愛という側面から見ることができるように思う。けれど、第3歌集『気がする朝』は「若者の恋愛」という枠にはとてもじゃないけれどおさまることのない、「ありのままの自分を全部ひっくるめて認める」という、重たくどっしりとした大きさと普遍性を持っていると思うし、何より伊藤紺さん自身が感じているその大きさへの静かな興奮が歌集全体に満ちているように思う。

歌のひとつひとつに今までなかった発光を感じ、これが、自分の光なんだと気付きました。
この本を書けたこと、一生誇りに思う。わたしの最高傑作です。

ナナロク社の店 伊藤紺さんのコメント

きっと正直さと切実さと大切にする伊藤紺さんが、「一生」という言葉を使えるくらいの光が、曙光が地平を遥か遠くまで照らしたんだろう。静かで眩いブックカバーの光、本の中にまで続く光線。
この歌集の「安心感」は、その光の強さと温かさにこそ宿っているのではないだろうか。

見上げたらすごい満月だったみたいにいま気づいてるわたしの答え

伊藤紺『気がする朝』(ナナロク社、109p.)

(終)






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