子どもの時と、いまの自分とが繋がらなくなった時に読みたい一首(短歌一首鑑賞)
大人になってから、もしかしたら、生まれ育った町から遠く離れるようになってから、昔のことを思い出すことがある。それも、あまりにも脈絡がなさすぎて驚いてしまうほど、唐突に。
この歌の主体も、かつて友人たちと遊んだ缶蹴りのことを思い出している。
この缶蹴りという言葉から、懐かしさを覚える人がどれだけいるのだろうか。ちなみに、缶蹴りとは、かくれんぼの派生バージョンの遊びで、缶を蹴飛ばして、その缶を鬼が取りに行っている間に、隠れるというものだ。
缶を思いっきり蹴り飛ばせた時の爽快感、逆に蹴り損なって情けない音を立てる缶を見ながら逃げる時の恥ずかしさ、鬼になって缶の前で10まで数える時の永遠のように長い時間。そんなものがこの短歌とともに瞬時に蘇ってくる。
とはいっても、この短歌はただ懐かしい過去を思い出しているだけではない。下の句の「記憶の中を転がったまま」という結びでわかるように、主人公はまだこの缶蹴りの中を、ある意味で生きているのだ。
しかも、僕だけではなく、僕「たち」の記憶の中を。
缶蹴りでなぜか記憶に残っているのは、きっと、蹴った缶が見つからずに全員総出で探しているときだろう。
缶を蹴飛ばされて、探し始めた鬼が、いつまでも缶を見つけられない。缶を見つけられないと、かくれんぼが始まらない。そのうちに、鬼が泣き言を言い始める。缶が見つからない、と。
見つからなければ、ゲームとしても面白くないので、必死に隠れていた子どもたちがゾロゾロと出てきて、缶を探し始める。うまく見つけられればいいのだが、時たま、不思議にも見つけられない時がある。なぜか、いくら探しても見つからないのだ。
そして、そのまま缶蹴りから別の遊びへと移行していく。缶蹴りは宙ぶらりんのまま。そんな見つけられなかった缶、終わらなかった缶蹴りの続きを、主体は今も生きている。そして、きっとそれが自分だけではないことを信じている。
「あれきり」缶蹴りはなぜかしなくなったけれど、それでも、あれ以来ずっと缶蹴りは続いている。そんな子ども時代とつながっているのだとしたら、現在のことも楽しめるのかもしれない。
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