知りたくなかった悲しみを教えられる取扱いに注意したい一首(短歌一首鑑賞)
この歌がもっているものは、悲しみだろうか、諦めだろうか。どちらにしても、美しい景色を見るときの心持ちとは大きく異なっている。
美しい景色を目の前にした時、それが、山でも、海でも、夜景でも、もちろん、思いがけなくあらわれた虹であっても、吸い込まれるような感覚を覚える。
雄大な自然を前にして、自分がその自然と一体になったような気になる。息を呑むほどの風景を見て、時間が経つのも忘れて見惚れる。初めてみる光景に、心が奪われる。
そんな忘我と言われる感覚は、多かれ少なかれ、誰にでも経験があるものかもしれない。
しかし、この歌の主人公はそのような陶酔に浸りはしない。いや、できればそうしたいのに、それができなくなってしまう。
なぜなら、目の前の虹は、自分が最初に見つけたものではない。つまり、自分だけのものではないことに気づいてしまったからだ。
そして、さらに、どの虹もそうだったことに気づいてしまう。子どもの頃にびっくりした虹も、通学途中に見た虹も、旅行先で訪れた虹も、友人と、恋人と見た虹も。どの虹も、自分だけのものではなかった、と。
その景色が美しければ美しいほどに、すでに誰かが見つけたもので、誰かによって語られたもので、誰かによって切り取られたものだ。そんなことに拘ってしまえば、富士山も、東京タワーも、あの街の夜景も、何もかも興醒めになってしまう。
そんな知りたくないことに気づいてしまった。この短歌の主体は、この次に、虹を見つけたときにどうするのだろう。それでも虹だと心を弾ませるのか、もしくは、もう無邪気には楽しめなくなってしまうのか。
できることなら、また心を弾ませたい。それがたとえ、自分だけのものではないと気づいていても。