今日の茶飯事 六杯目 梅干し界のスター
あなたたちが梅干しが食べれるようになったのは
いくつの時だっただろうか。
勝手な偏見だが
祖父母によくかわいがられてきた人たちならば
他の子たちよりも幾分か早く梅干しを口にし、(好きか嫌いかはともかく)食べられるようになった人たちは多いのではなかろうか。
しかしそれを考慮しても、幼稚園(保育園)の時から食べられる人は少なかったと思う。あんな酸っぱいもの、誰が食えたものか、と。
実際幼稚園児だった私は梅干しを食べられる友人を見て
酔狂なものだな。
と、思っていた。
いや、酔狂だ、と口に出したわけではないが、少なくともその時の私からしてみれば梅干しというのは食べ物ではなくて、なぜか毎回お弁当の白ご飯に乗っている「敵」という認識であったのは間違いあるまい。
大人でもまだ梅干しが嫌いな人はいるだろう。口に含んだ瞬間、舌の上で唐突に始まる花火のような酸味に、反射で洪水のように流れ出す唾液。どうにかこの刺激をどこかにやりたい、というのに種が残っているため一度吐き出す行為を挟まなければいけなくて、吐き出した瞬間外気に触れた口腔が刺激で再び唾液を放つ。それこそ、滝のように。
食べられるようになったのはここ最近。
とはいえ、今の私でもあまり好みでない梅干しを食べるとそうなってしまうのだ。幼稚園児だった私が「いやいやそれでも残しちゃ駄目だ。」なんて責任感を感じて口にすることなんて一度もなかった。
ただ、いる。
冒頭にも言った通り、やたらと梅干しが食える奴というのが。
別段、友達を囲っているわけではない、かと言って何か得体の知れない雰囲気があるわけでもない至って普通の奴だった。
それがお昼ご飯の時間になると、化ける。その瞬間だけ、スターになるのだ。
私の幼稚園では全員にお弁当が配られる。(業者に頼むタイプのやつだ)
そのためおかずのラインナップはみんな同じとなり、そしてみんな白飯の上に梅干しが乗ることになる。大人用だからだ。
勿論、食べられる奴は殆どいない。先生たちもなんとなく察しているので、我々が梅干しを残していても特に何も言わなかった。
ここで無理にでも食べさせようとしたら、ギャン泣きするのが関の山である。強制されないのなら食べるつもりはない。各々が好きに弁当を食い始めるのだ。
それがいつからか、皆の食べない梅干しを受け入れる、梅干し界のスターが現れたのだ。
そいつは梅干しが食べられる、大の梅干し好きだった。
お昼ご飯の時間になると、一斉に黒いパックのお弁当に手を伸ばし、透明な蓋を開ける。主菜副菜は大人向けと言えども、子供が全然食べられない渋いオカズはほとんど出ないわけで、分かりやすい揚げ物か、シャケや鯖の塩焼きなんかが多かった。唐揚げなんかが出た時は椅子から飛び上がり獣のように騒ぐ奴もいた、気がする。
そうやって一通り弁当の確認が済むと、白飯の上に乗った紅一点(望まれたものではない)を箸でつかみ、梅干し付きのやつに、どうぞ、と言わんばかりに押し付けるのだ。一人ならまだしも、最終的に梅干し押し付けの会員は十を超えることになった。
今思うとほぼイジメではないかとおもうだろうが、そうではなかった。
どうみても白飯と梅干しの対比がおかしくなった弁当を前に、梅干し好きは歓喜した。こいつもこいつで狂っていたのだ。だがこの狂気が、梅干しの需要と供給を支える見えざる手のような役割を持ち、Win-Winの関係を築き上げたのだ。
それ以降お昼の時間では、そいつの弁当箱だけ
異様な数の梅干しの種が弁当箱の縁に残っていた。十数個の梅干しは塩分がどうとか色々言いたくもあるが、生まれてこのかた五、六年のガキンチョに歯止めなんて聞かなかっただろう。それくらい好きだったのだ。
彼はいまでも梅干しが好きなのだろうか?
あの時のように、狂気的なまでに好きなのであれば、その気持ちを茶碗一杯分だけでもいいから、分けてもらえないだろうか。
こちらはまだ梅干しと梅干しへの気持ちの対比が、ちょっとおかしなままなのだ。