「型破りな教室」知識も真理もスポンジみたいに吸収する子供たちを見るのは楽しい。
どうも、安部スナヲです。
「学力最低辺から全国トップへ!」というキャッチコピーと、実話ベースの映画という触れ込みからは、どうしても「ビリギャル」を連想してしまいますが、これはメキシコの小学校でのハナシ。しかも月並みな「お受験」映画などではなく、それどころか…
【あらましのあらすじ】
殺人や麻薬取引が日常的にはびこるメキシコ・マタモロス。
学力が全国最下位のホセ・ウルビナ・ロペス小学校に赴任したセルヒオ・フアレス・コレア(エウヘニオ・デルベス)は、学校のカリキュラムを無視した独自の授業を行う。
「船が転覆した。救命ボートは6隻で君たちは23人いる。みんなが助かるにはどうする?」
この質問をきっかけに、はじめて「浮力」について疑問を持った子供たちは、それぞれが調べたり考察したりする。
この日から子供たちは、いろんな現象を解き明かす面白さを知り、学ぶことに意欲的になる。
ゴミ山近くのほったて小屋に父親と二人で暮らすパロマ(ジェニファー・トレホ)は、好きな宇宙工学を掘り下げ。
シングルマザーの母親を助け、妹弟の世話と家事をこなすルペ(ミア・フェルナンダ・ソリス)は哲学に目覚める。
ギャングである兄に従い、その仲間に入ることが決められていたニコ(ダニーロ・グアルディオラ)も、「もう少し学校に通いたい」と兄に打ち明ける。
しかし、全国テストを2週間後に控えたある日、いたましい悲劇が彼らを襲って……。
【感想】
こういう学力の劣る生徒やクラスが劇的に成績を伸ばすサクセスストーリーは、たいてい「学ぶことの本質は、成績や試験の結果にはない」という価値観ありきで語られる。
ましてキャストが小学生だと、よほどストイックな進学校でない限り、成績よりも思いやりや助け合い、はたまた努力や責任感。そういった社会性の芽生えこそが成長であり、教育とはそうあるべきだというところに着地する。
その点はこの映画も定石を踏んでるといえるのだが、子供たちが柔らかい感性で知識も真理もスポンジみたいに吸収し、学ぶことの楽しさを知っていく様は、見ているこちらも楽しい。
問題は、子供たちの置かれている環境である。
それはあまりに劣悪で陰惨、ハッキリ言って教育どころではない。
まがりなりにも「先進国」で安住している自分などが、おぼろげに思う世界の貧困・スラムのリアルに、こういう形で触れた時、呆けたように口をポカンとするしかない。
映画の感想や問題意識を云々する前に、まずはその無力感と向き合わなければならない。
あの子たちは、あたりまえに銃声が響くなか、路傍の死体を尻目に学校へ通うのだ。
そしてパロマやニコの住うあの家…あれは我々からするとギリギリ住居の体をなしていない。
学校は学校で酷い。老朽化した校舎や教室、我が身の待遇のことしか考えず、教育などそっちのけの教師たち。
パソコン教室にパソコンは1台もなく(すぐに盗まれたので)、市に申請してものらりくらりと誤魔化され、結局腐敗体制のエサにされてしまっている。
あそこには教育を機能させるための最低限の文明が行き届いていない。
あのなかで暮らす子供たちの未来が、いったい何に阻まれているのかを考えると、胸がつまる思いであった。
このハナシは某雑誌に掲載された天才少女パロマと、セルヒオ先生の画期的な教育指導についての記事が原案となっているらしいが、そこ以外はどこまで実話なのか定かではない。
気になるのは、ニコに起きたあの事件。
パンフレットによると、ニコは創作上あてこまれた架空のキャラクターらしいが、だとしたら少々モヤる。
ギャングになるしか道がなかった彼は、セルヒオ先生への信頼やパロマへの恋によって変わろうとしたのだ。その健気さを思うとあの末路はあんまりだ。
マタモロスの厳然たる実情を劇的に示す必要があるのもわかるが、にしてもちょっとなぁ…。
レイティングがPG12の理由は、きっとあのシーンがあるからだろう。あれは子供が見たら取り返しのつかないトラウマになりかねない。
健気といえば、「てつがくちゃん」ルペ。
片親なのに、どういうわけか次々に出産する母を持ったばかりに、彼女は子育てに忙殺される人生を余儀なくされる。
セルヒオ先生の導きにより哲学に目覚めた彼女は、自分の置かれた状況に照らし合わせて、中絶について哲学的問いを持ち、立派な持論を立てる。
あの聡明さと気丈さはフツウに人として尊敬するよ。
ルペにも、宇宙飛行士を目指すパロマのように奨学金が適用されればどんなにいいだろう。
あと、はじめは保守的な体制側だったチュチョ校長が、セルヒオ先生と心を通わせるうちに良心と、子供たちへの愛情を取り戻して行くのも良かった。
大人は大人で学びの本質を捉えなおし、成長しなければならない。
それを子供たちから教わる様子には、胸がすく思いがしました。