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「フェラーリ」自社の年間販売台数を把握してない社長ってどうよ?
どうも、安部スナヲです。
モータースポーツなどにあかるくない私にとって、フェラーリといえば、世界一のスポーツカー?或いは富の象徴?そういう紋切り型の認識しか持っていませんでした。
エンツォ・フェラーリという名前も、マット・デイモンとクリスチャン・ベールが出てた映画「フォードVSフェラーリ」ではじめて知ったくらいで、無論、その猛者のバックストーリーなどは知る由もありません。
今回、マイケル・マン監督特有のスリリングなトーンのなか、まるで佐分利信みたいな貫禄を醸すアダム・ドライバーの老け役に陶然となり、観て来ました。
【あらましのあらすじ】
1957年。イタリアの自動車メーカー「フェラーリ」の創業者社長エンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)は、窮地に立たされていた。
前年に最愛の息子ディーノを病気で亡くし、設立から10年目の会社は破産寸前。
妻でありフェラーリの共同経営者でもあるラウラ(ペネロペ・クルス)との関係も、もはや末期症状というくらいに悪化してしまっている。
エンツォは愛人のリナ(シャイリーン・ウッドリー)と、彼女との間にできた男児・ピエロを郊外の別宅に住まわせ、二重生活を送っているのだが、本妻のラウラだけはそのことを知らない。
リナは明るく健気な女性だが、もう12歳になるピエロを未だ認知してくれないエンツォに業を煮やしている。
一方、ライバル会社に次々とスピード記録を破られ、販売不振に陥ったフェラーリに対して、フォードやフィアットは足元を見るように買収工作を仕掛けてくる。
公私共に背水の陣のエンツォは、再起を図るべく、イタリア全土1000マイルを縦断するロードレース「ミッレミリア」に挑む。
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【感想】
あらためて意外に思ったのは、〈富の象徴〉である筈のフェラーリ社が、スポーツカー界のトップに君臨してもなお、儲かるどころか、資金難に陥っていたこと。
「フォードVSフェラーリ」のなかでも、フォードからの買収交渉を蹴ってフィアットの傘下に入るくだりは出てくるが、まさかここまで経営そのものが杜撰だとは思っていなかった。
映画を観るかぎり、エンツォという人は、レースで勝つことのみが絶対的プライオリティであり、事業に関しては計画性もヘッタクレもあったもんじゃない。
如何せん自社の年間販売台数が98台か198台かも把握していないのだ。そればかりか、本当は400台売らないと採算性が担保されないというのに「ジャガーは売るために走るが、私は走るために売る」なんて酔った戯言で居直る。阿保か。
もしこれがフツウの上場企業だとして、社長がこんなことを公言したら、株主から「おまえをフェラーリで轢き殺したろか!」と糾弾されるだろう。
何より受け入れ難いのは、ドライバーの命をかえりみないところ。
これについて、過去に大切な仲間の死を経験した日から「心に壁を作った」と言っているが、それは自らサイコパス宣言をしているようなものだ。
レースの勝敗をわける局面でブレーキを踏んだドライバーに、「勝つために走れ、ブレーキは忘れろ」と叱責し、さらに「死と背中合わせの情熱だ。恐るべき喜びだ」と苦味走った顔でイキリ散らかされても、こちらはドン引きするだけだ。
マイケル・マン作品に通底するこのような“男の美学”は、若い頃には憧れたものだが、今の自分の価値感ではムリだ。
エンツォのサイコっぷりと同じく驚愕したのが、伝説の公道レース、「ミッレミリア」
北イタリアのブレシアという街からスタートし、ローマあたりで折り返す格好で戻って来る、1000マイル(約1600㎞)のコース。
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つまり、市街地や一般公道をガチのレーシングカーが時速240㎞とかのスピードで何台も走り抜けるのだ、こんな恐ろしいことが実際に行われていたことが信じられない。
しかも、安全対策はおろか、まだ道路整備自体が不充分な時代である。
映画的な見せ場としてはおいしいが、こんなことはワイルド・スピードやミッション・インポッシブルで見るから楽しいのであって、現実にやっていいわけがない。
そんな無謀の末路である、あの恐ろしくて惨い事故シーンも、予備知識ゼロで見たうえでは唖然とするしかなかった。
デ・ポルアーゴが乗る赤い弾丸“531”が、突発的不可抗力により一般大衆に襲いかかって…まさに地獄絵図だった。
この事故を機に、ミッレミリアは開催禁止となったようだが、あのようなレースが30年間も開催されていたというのだから狂ってる。
エンツォを筆頭に、彼らは皆、狂気ありきの世界で悪魔に取り憑かれていたようなものだ。
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誰よりも鬼気迫る演技を見せていたのがエンツォの妻ラウラ役のペネロペ・クルス。
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息子を病気で亡くしたことへの悲しみと後悔、加えて夫としても共同経営者としても信頼できないエンツォへの積もり積もった遺恨。
あの常に発狂寸前の危うさをたたえた表情や佇まいは圧巻で、今も脳裏に焼き付いている。
あの夫婦が悲しいのは、息子の死を互い支え合って乗り越えるのではなく、やり場のない想いが反目し合う方に向いてしまったこと。
それでも終盤にラウラが取ったある行動がエンツォを救うためだとわかった時、まだ愛情は完全に潰えてないと感じることができた。
エンツォにも愛はあるのかも知れないが、あまりにエゴイスティックな美学に歪められていて、もはや美しくも何ともない。
「うまくいってるものは見た目も美しい」と言ったのは、エンツォなのに。
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