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「シビル・ウォー アメリカ最後の日」戦場の記録に意味があるかないかを決めるのは、カメラマンではない。

どうも、安部スナヲです。

予告編の冒頭で、ヘンテコなサングラスとチープな迷彩服のジェシー・プレモンスがライフルを手に「What kind of American?(どんな種類のアメリカ人だ?)」と言ってるのを見た時は、正直コメディかと思いました。

出典:映画.com

で、実際に観た印象をひとことで言えば「近未来のアメリカを想定した社会派ロードムービー」といった感じですが、現状が現状だけに、そんな表現は軽すぎます。というか、あまりにも笑えんのです。。。

【あらましのあらすじ】

アメリカで内戦が勃発。

ファシスト大統領率いる政府と、それに対抗するべく同盟を組んだカリフォルニア州・テキサス州率いる「西部勢力」による戦闘は日々激化し、政府側は劣勢に追い込まれていた。

ある日のニューヨーク。水を求めて暴動を起こす市民と、それを鎮圧する部隊が衝突している現場を撮影していた戦場カメマンのリー・スミス(キルステン・ダンスト)は、もみくちゃにされて負傷した若き写真家・ジェシー(ケイリー・スピーニー)をケアする。

報道写真家を目指すジェシーにとって、リーは憧れの「ヒーロー」だった。

リーは、報道仲間で記者のジョエル(ワグネル・モウラ)と、もはや敗北は時間の問題である大統領への単独取材を計画していた。

リーの恩師で、ベテラン記者サミー(スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン)は「危険すぎる」と反対するが、これを押し切り、一向はワシントンD.C.を目指すことに。

出発の朝、何故か彼らの車にあのジェシーちゃんが乗っている。。。

昨夜、ジェシーは彼らの滞在するホテルを訪ねており、リーに助けてもらった礼を述べたあと、ジョエルに同行をせがんでいたのだった。

訝しむリーだったが、西部勢力の拠点であるシャーロッツビルまでならと、ジェシーの同行をシブシブ了承する。

かくして4人はニューヨークを出発。

D.C.への道中各地で彼らを待ち受けていたのは、凄まじい戦闘のみならず、内戦によって秩序が崩壊した、正に狂気の世界。

いくつも凄惨な光景を目の当たりにし、幾度となく死に直面しながら、漸く辿り着いたD.C.〜ホワイトハウスで彼らが見たものは…

出典:映画.com


【感想】

リアル路線の近未来ものは「あり得るかも」が既に娯楽性であり、そのなかにいろいろ考える要素や問題提起を見出すのであって、それこそがフィクションのありようだ。

しかし、ここまで状況設定がきわど過ぎると、フィクションというよりも、現実に起きることの既視感を先取りしているようで、マジで恐ろしい。

如何せん「憲法を修正して任期を2期から3期に延長する」と目論んだ〈元〉大統領が、今正に、厭というほどの存在感を持って政権に手を伸ばしている。

その結果が3日後に出るのだ。

あまりあの人物のことを、ネガティブな決めつけによって悪魔化するのも良くないが、良くないと思えば思うほど、この映画の光景が距離を縮めて来やがる。嗚呼…

状況設定について目から鱗だったのは、カリフォルニア州とテキサス州が手を結ぶという構図。

保守色とリベラル色が両極であるが故、本来は相容れないとされているこの二つの州を結託させることで、安易なイデオロギー対立にはせず、倒すべきは、あくまでファシズムであるとの狙いをハッキリさせている。

また、報道=PRESSの目線で戦闘を追うことによって、中立の立場で客観視させるのかと思いきや、そんなナマやさしいもんじゃなかった。

ひとたび内戦が起きれば敵も味方もない、撃たねばこちらが撃たれるという泥沼カオス…

その実状を突きつけられたことが、いちばん重要な気づきだった。

いちいち現実のアメリカと結びつけるのもアレだが、これらの「あり得るかも」「もしあり得たら」に基づく設定は、何れも「内戦のアメリカ」というシチュエーションだからこその舞台装置である。

そういう重さとは別の見どころもたくさんある映画だ。

なかでも膝を打ったのが、独特な音響と音楽の使い方、そしてカメラに纏わる描写だ。

ここからは、カメラ/写真好きの視点でもって語りたい。

正直、はじめはジェシーの使っているカメラが古いフィルムカメラだったことに興醒めした。

出典:映画.com

あの手のクラシカルなカメラは、ガジェットとしてバエるので、とかく映画のなかではオシャレな小道具として意味のない使われ方をしがちだ。

それと、現代の戦場報道でフィルムカメラを使うのはどう考えても非効率で現実的じゃない。

一方、リーが使っているのはSONY α7R。

出典:映画.com

フルサイズデジタルカメラのなかでも、機動性に富んでいて、こちらは至極妥当なチョイス。

この差に違和感をおぼえたのだ。

どういうことかというと、ジェシー側には、リアリティよりも女の子が持って様になるカメラをファッション的にあてがったと思ったのだ。

が、それは早合点だった。

後にジェシーのカメラが父から譲り受けたNikon FE2であることがわざわざ示され、携帯用現像キットや、スマホ対応のネガスキャナーまで登場する(現像液を体温であたためるのもナイス!)

このことは、電池が切れてもシャッターが切れる機種であること、その場でデータ読み込みができること、つまり、戦場という環境に対応した撮影機材であることを意味する。

それでも状況的に無理のある場面は多々あったのだが、ここまでリアリティを意識したエクスキューズがあれば、素直に受け入れようという気になれる。

何より感心したのは、ジェシーの撮影技術。

はじめての戦場撮影の時、彼女はこわごわ危険を避けながらも、被写体との距離の取り方が絶妙だった。

出典:映画.com

さらに言えば装着しているレンズ(標準と中望遠の単焦点)の画角と撮影域に慣れている動きなのだ。(ちなみにこの時に撮ったカットは殆ど失敗しているのがミソ)

何よりカメラ好きが撮影に没頭した時の、もうどうにも止まらないという昂揚感が伝わって来る。

リーたちとの地獄巡りを経て、ワシントンD.C.に辿り着いてからのジェシーは、人が変わる。

頬に微笑を滲ませながら、飛び交う砲弾を機敏にかわし、次々とシャッターチャンスをものにするスーパーカメラマンに仕上がっていた。

出典:映画.com

対してリーは生気が失せたように動きが緩慢…明らかに撮ることを躊躇っている。

劇中、リーは無念をあらわにこう言っていた。「私の写真は自国への警告のつもりだったのに、このような内戦が起きてしまった」と…

そして、若いジェシーには「自問自答したらキリがない。だから記録に徹するの」と…

この二つの発言は矛盾しているのだ。

人道的には微妙な立場であるカメラマンが「警告」を意図するのは傲慢なのだ。

戦場の記録に、意味があるかないかを決めるのは、それを見た人なのだから。

出典:映画.com


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