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「ジョーカー フォリ・ア・ドゥ」完璧な続編、これ以外はない。

どうも、安部スナヲです。

今や魔力的なスゴ味を持つレディ・ガガが、ハーレクインにキャスティングされているというだけで期待値が爆あがりする続編でした。

さぞや前作の鬱屈と悲哀から「ジョーカー」を解き放ち、カタルシス全開のなかで最恐のヴィランが完成するのだろうと。

さらにタイトルの「フォリ・ア・ドゥ(二人狂い)」という響きからも、耽美で狂気な香りを嗅ぎ取り、まんまと「その手」に乗ってしまったのですが…

出典:映画.com

【あらましのあらすじ】

2年前ー。

度重なる理不尽と不遇に追い詰められたアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、幾つかの殺人を経て、悪の権化“ジョーカー”に変貌。

テレビ番組の生放送中に人気コメディアン、マーレー・フランクリンを銃殺したことで、一際世に衝撃を与えた。

彼は今、アーカイム州立病院に収容され、心無い看守たちからの仕打ちに耐える日々を過ごしていた。

出典:映画.com

ある日、彼は音楽セラピーでリー・クインゼル(レディ・ガガ)という女性と出会う。

リーは社会的弱者のヒーローとして崇拝された“ジョーカー”に心酔していて、2年前のマーレー・フランクリン銃殺を讃え、こんなことを言う。

「毎回あいつを見て思ってたの“誰かあいつの頭を撃ってくれ”って あなたがやった 生まれて初めて私は独りじゃないと思えた」

どん底を這うような人生で、初めて理解者を得たアーサーは、忽ち彼女に恋をする。

出典:映画.com

その日からアーサーとリーは病院内で際どい狂行を重ねる。

やがてアーサーの殺人を評決する裁判がはじまる。

裁判所にはジョーカーの信奉者たちが集っていた。

担当弁護士のメリーアン(キャサリン・キーナー)は、アーサーの同一性人格障害を事由に、殺人を犯したのはアーサーではなく別人格である“ジョーカー”であるとの主張を持って裁判に臨む。

ところがアーサーは、ジョーカーである自分をこそ愛しているリーに惑わされ、彼女が望むとおり、メリーアンをクビにする。

以後は本人弁護で裁判を継続するアーサー。

再びあのメイクと衣装を纏い“ジョーカー”として法廷に立つが…

出典:映画.com

【感想】

序盤までは、アーサーとリーがいつ手に手を取って病院を脱走するのかをワクワクしながら見ていた。

が、どうやらちがう。

そう気づいたあたりから、作り手のねらいが浮き彫りになって来た。

彼らはこの続編で、前作における負の側面(ジョーカーを模した暴力や犯罪行為が多発したこと)への禊ぎを果たそうとしている。

ということは、今作はあのビミョーなミュージカルシーンをのぞいて何らフィクション的飛躍を遂げることなく、ただアーサーが穏当に裁かれ、穏当に報いを受けるだけの映画になるのか?…と

その予想は概ね当たっていた。

よくよく考えてみたら、良きにつけ悪きにつけ、あのように担がれてしまった前作の続編をエンタメ全開で仕上げて来るわけがない。

そう考えると、尚更レディ・ガガの起用と「フォリ・ア・ドゥ」というタイトルは、前作ファンもDCコミックファンも纏めてミスリーディングするのに有効な立て看板だ。

もしこの続編を「ヴィラン完成」に着地させ、かくしてジョーカーとハーレクインは荒廃したゴッサムシティを血に染めるのであった…みたいな内容にしたら、ただのジャンル映画になってしまう。

それはそれで面白くなるポテンシャルはあるっちゃあるが、まあその線はないわな、いろんな意味で。

そんなことを思いながら映画を観終わって、「まぁ溜飲は下がったかな」以上の感想を持ち得ないまま、映画評にアクセスしてみると、まず本国では酷評されていて興収も惨敗だという。

日本のレビュアーも、反応はまちまちだが、両手をあげて賞賛する人は殆どなく、「気持ちはわかるが、面白くない」「ジョーカーではなくアーサーならまだ納得は行く」など、全否定はしないがもどかしい…みたいな意見が目立つ。

うーむ、なるほどなるほど…と思いながら、今一度、前作を観直してみると、雲が晴れるように、すべてに合点が行った。

これは完璧な続編だ、これ以外はない。

確かに全体的に鈍重でカタルシスの薄いストーリーだし、多くの人が不満点とするミュージカルシーンも、中途半端な印象を受ける。

しかしそれらはすべて、この映画のトーン&マナーに沿った最適解なのだ。

ジョーカーなどはじめから存在しないし、偶像にすら値しないただの虚構。

そこにはアーサー・フレックという、不遇やハンディキャップを補うだけの愛嬌も度胸も人間的魅力も持ち得なかった惨めな男がいるだけ。

この2作は、その厳然たる作品ポリシーが貫かれた一対の物語。そこに齟齬もなければブレもない。

しかも一見ミスリード的なねらいと思われた「フォリ・ア・ドゥ」という言葉の意味も、最後の最後で意外な帰結を果たし、ご丁寧にDCコミックのあのジョーカーの文脈に繋げている。

そして今回もアメリカンニューシネマ由来のくすんだ色彩を纏った退廃美、キメ画の多い映像演出は大好きだった。

出典:映画.com

あの不粋なミュージカルシーンも、アーサーの妄想域でのみ展開される世界としてはベターなバランスだと思う。

出典:映画.com

ただひとつ、どうにも処し難いのはホアキンとガガの歌唱力の差。あれはどう聞いても不釣り合い。どれだけガガが演技用に本域を抑えていたとしても、あれではまるで歌のうまい花形ホステスと酔客ではないか。

まあ、強かなリーの手玉に取られるアーサーという構図で見れば、その関係性に近いと言えなくもないが。って、ひでぇ言い草だな笑。

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