「ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリディ」もっとも愛されるべき嫌われ者のロマン。
どうも、安部スナヲです。
ジャック・ニコルソン主演作で私がいちばん好きな映画はアレクサンダー・ペイン監督の「アバウト・シュミット」です。
定年退職して時間を持て余すウォーレン・シュミットという男が、いろいろ思い詰めれば思い詰めるほど、どんどん言動がおかしくなっていく様子は、滑稽で可愛いらしいけど、たまらなく切ない気持ちになります。
ペイン監督は悲喜劇の〈悲〉の配分のしかたが独特で絶妙だなぁ…というところに期待を込めつつ、最新作を観て来ました。
【あらましのあらすじ】
1970年12月。ボストン郊外の全寮制男子校バートン校は冬休みを目前に、少々ざわついてる。
多くが帰省して、クリスマスや新年を家族と過ごすなか、ワケあって帰省できず、学校に残る生徒たちがいる。
そんな〈居残り組〉たちの監督係を担わされたのが、古代史の教師ハナム(ポール・ジアマッティ)
融通がきかず、面倒臭い理屈ばかり言うハナムは、生徒からも学校側からも嫌われている。
生徒のひとり、アンガス・タリー(ドミニク・セッサ)は、冬休みを母親とカリブの島で過ごす筈だったが、突然母親が再婚相手と新婚旅行に行くと言いだして約束を反故にされ、やむ無く居残り組に加わる。
アンガスは成績優秀の美男子だが、斜に構えた性格が災いしてか、皆から敬遠されており、居残り組のなかでも浮いた存在。
学校で冬休みを過ごす彼らの食事を担当するのが、給食料理長のメアリー(ダヴァイン・ジョイ・ランドルフ)。
息子をベトナム戦争で亡くしたばかりのメアリーだが、辛い顔を見せることも、生意気盛りで、時に酷く無神経な生徒たちの言動に動じることもなく、淡々と仕事をこなしている。
ある日、スミスという大金持ちの生徒の実家から、専属パイロットがヘリコプターで、お坊ちゃまのお迎えに来る。居残り組のほかの生徒たちもそれに乗ってスキーに行くことになるのだが、母親と連絡がつかず親の許諾が得られないアンガスはただひとり学校に残る。
残りの日数を3人で過ごすことになったハナム、アンガス、メアリー。
この日から3人には奇妙な連帯と絆が育まれていく。
そんなこんなで迎えたクリスマス。心温まるディナーの場でアンガスは「ボストンに遊びに行きたい!」と言い出す。
しかし、寄宿中の外出は禁止されている。
困ったハナムだが、社会見学という名目なら外出できるとの妙案を思いつき、翌日、2人はボストンへ赴く。
このボストンへの短い旅で、ハナムとアンガスはお互いの、誰にも言えなかった秘密を明かすことになって…
【感想】
これもまた〈水清ければ魚棲まず〉というか、世知辛いで済ませるにはあまりに残酷で悲しい結末だが、不思議と観終わったあとには、ずっと抱きしめていたいような温もりが残る。
結末を知ったうえでの二度目の鑑賞時には、もうハナムが出てきた瞬間に泣けてきた。
ハナムという人は、事前に宣伝などから受けていた頑固で尊大なイメージとはちがっていて、率直にものを言うが誰よりも思いやりがあり、しかも飛び切り愛嬌がある。
こんなに優しくてキュートな人がなんで嫌われ者なんだ?愛されることはあっても、嫌われる筈がないではないか…と、もはや完全に思い入れている。
教育者としての彼の信念は、受験のための勉学を教えることではなく、歴史を学ぶことの意義そのものを生徒たちに伝えること。
その信念ができあがるまでには、彼自身が過去に権威主義的体制から被った理不尽への苦悩と葛藤があるのだが、その揺るぎない信念こそがアンガスとの絆を強くし、最後にはアンガスを救うことになる。そんなふうに感じた。
アンガスもまた、若いながら苦悩の人。大好きな父親とは、これまたとても悲しい事情によってはなればなれになり、マチズモの権化みたいな継父と、それに従属する母親からは酷に虐げられ、打ちひしがれるしかない。
そんな彼らに静かに寄り添うようなメアリーの包容力が素敵過ぎる。
愛する息子カーティスが戦死しなければならなかった背景には、黒人であることとと、経済的理由による不遇がある。
カーティスが徴兵される時、「生きて帰って来られたら、大学に行ける」と言ってメアリーを慰めたという話には、胸が壊れるかと思った。
彼女もまた権威体制の犠牲者だ。
3人のうちの誰かが傷ついている時に他の誰かが優しく手を添えるシーンが、要所々々に出てくる。
あのさりげない慈しみによって、彼らの絆がどれくらい深まったのかを知ることができた気がする。
徹底して70年代のテイストにこだわっているのも、この映画の重要なポイントだ。
あくまでも〈テイスト〉というとこがミソ。
例えば映像は、フィルムを使ったなら物理的にアナログ質感にはなるが、この映画は敢えて、全編デジタルで撮影されている。
70年代のレンズを使って撮影し、それありきで、当時のフィルムの特色に合うようチューニングしていったという。
ということは、あの褪せた色味や粒状感、傷ついたフィルムを回した時に出る線の再現などは、すべてグレーディングとエフェクトで処理されているということになる。
デジタルによるフィルム調のルック自体は、今ではフツウだが、ここまで作り込むのは逆にデジタルでなければ無理なのかも知れない。
あのアメリカンニューシネマ期のムードを出すには、単に〈レトロ〉〈ノスタルジック〉ではダメなのだ。
アメリカ郊外とクリスマスというシチュエーションも、そのニューシネマ的ロマンを盛り上げるのに最高な舞台だ。
そう、こういうのは理屈ではなくロマンなのだ。
この映画には、どうしても名画座や日曜洋画劇場とかで観る「いちご白書」のような〈映画ロマン〉が不可欠なのだ。
音楽についても、1970年前後の曲がたくさん使われてはいるが、ジェームズ・テイラーばりのダミアン・ジュラードやソフトサイケなクルアンビンなど、70年代テイストを持った今のアーティストの曲も、必要に応じて混ぜ込まれている。
音楽もやはり、あくまで〈テイスト〉がねらいであり、単に1970年の冬に流行っていた曲で時代背景を示す目的とも異なる。
そこらへんが、この映画の飽くなきこだわりと言えるだろう。
印象に残る曲はたくさんあったが、エンドロールにも流れるラビ・シフレの曲の歌詞をあとから知って、さらに切なくなった。
特にこの部分
「嘘をついたって良いことなんかない なのにどうして今僕は嘘をついているんだろう」
これはラストのハナムの心境そのものではないか。あかん、また泣く。