「カラーパープル」度胸と愛嬌のシスターフッドブルース。
どうも、安部スナヲです。
別に誰に聞かれることもありませんが、スピルバーグ監督の『ウエストサイドストーリー』は、その年(日本での公開は2022年)に観た映画のベスト1でした。
本作『カラーパープル』のミュージカルシーンを予告編で見た時、放たれる熱と色彩が『ウエストサイドストーリー』にそっくりで、一瞬にしてボルテージが上がりました。
概要をよく確認するまでは、スピルバーグ自身によるリメイクだと思っていましたが、ちがいました。
それでもスピルバーグや、スピルバーグ版でソフィア役を演じたオプラ・ウィンフリー、そもそも映画化の言い出しっぺであり、音楽を担当したクインシー・ジョーンズもプロデューサーに名を連ねています。
ここまで重要な人たちが揃ってバックアップするリメイクには相当なこだわりがあるのだろうなと、さらに期待が膨らみました。
監督のブリッツ・バザウーレを、私は全く知りません。わかっているのは彼がアフリカ系であるということだけ。
【あらましのあらすじ】
物語のはじまりは1909年。舞台はアメリカジョージア州。
14歳のセリー(フィリシア・パール・エムパーシ)と妹ネティ(ハリー・ベイリー)が仲良く遊んでいる。
一見、ほのぼのした牧歌ムードだが、セリーはお腹に子を宿している。それも父親であるアルフォソン(デオン・コール)の子を…
やがてセリーは男の子を出産するが、その翌日にはアルフォソンに取り上げられる格好で、知らないところへ里子に出されてしまう。
ある日、ミスター(コールマン・ドミンゴ)という、どこか浮ついた男が、ネティを嫁に欲しいとアルフォソンに交渉してくる。
アルフォソンは才色兼備で将来有望なネティよりも、不器量だが働き者のセリーをミスターに嫁がせる。
しかも、牛一頭と卵と交換という取り引きで。
ミスターに奴隷のようにこき使われる日々を過ごすセリーのもとへ、ある日、ネティが訪ねて来る。ネティはアルフォソンからの性的虐待を逃れて来たのだ。
再び姉妹のつつがない日々が訪れたかと思いきや、今度はミスターがネティに襲いかかる。正当防衛を行使したネティに逆上したミスターは彼女を追い出してしまう。
時は流れ、地獄の日々にひたすら耐えながら大人になったセリー(ファンテイジア・バリーノ)は2人の女性と出会う。
ひとりはミスターの長男ハーポ(コーリー・ホーキンズ)の恋人(後に結婚)、ソフィア(ダニエル・ブルックス)
男尊女卑が規範化されているなかにあって、彼女は断じて男に屈しない勝気な女性。
もうひとりは奔放なブルース歌手でミスターの元愛人のシュグ・エイブリー(タラジ・P・ヘンソン)
彼女は牧師である父と決裂する格好でこの町を出て、歌手になる夢を掴んだのだった。
この2人と交流を重ねることで、長年苦境を強いられ、卑屈になりがちなセリーに変化が起きはじめ…
【シュグは何故ブルースを歌うのか?】
ゴスペルを題材にしたミュージカルはいろいろあるが、ブルースとなるとあまり聞いたことがない。
ブルースはすべてのポピュラー音楽の基礎であり、ダンスミュージックでもあるのだが、歌って踊るというよりは、ギターを弾いて歌う、或いはバンドで演奏するイメージが強いからかも知れない。
この映画が興味深いのは、黒人霊歌と呼ばれるゴスペルから、如何にブルースが派生したのかを、シュグと牧師である父との軋轢という構図を用いて見せてくれたこと。
敬虔な信仰から放たれ、自由な魂を持って流行歌手になる道を選んだシュグの行動そのものに、黎明期のブルースを投影することができるし、親との軋轢であれ黒人社会、男尊女卑の苦悩であれ、悲しみはすべて音楽に昇華する様がまさにブルースそのものだ。
パンフ掲載のインタビューで、タラジ・P・ヘンソンがシュグという人物について「レモンを投げつけられたらレモネードを作る、石を投げられたら家を建てる」と語っているのを読んで、さらに腑に落ちた。
黒人が何故歌うのか?
苦しいから歌うのだとよく言われる。
それは正しいだろう、だけどゴスペルであれブルースであれ、楽しくなきゃ誰も音楽なんてやらないだろう。
シュグに限らず、この映画のなかで歌い踊る彼女たちは、皆とても楽しそうだ。
怒ってようが、悲しんでようが、徹底徹尾楽しんでる。
まさに投げつけられたレモンでレモネードを作ることに喜びや楽しさを見出せるマインドが、ブルースを生んだのだと思った。
贅沢を言えばラストにもう一曲、皆でド派手に踊って肩を叩き合うようなミュージカルシーンが見たかった。
胸のすく、見事なエンディングではあったけど、あまりにシットリ終わり過ぎて、こちらの情熱のやり場というところでは若干生殺し感が否めず。
S ・S・ラージャマウリの『R.R.R』みたいな気持ちいいフィニッシュを決めてくれたら、スタンディングオベーションものだったのにな。
【ソフィアこそが希望】
この映画のMVPは文句なしにソフィアだ。
ソフィアは男からの、或いは白人や階級社会からの支配・抑圧に一貫して「Hell,No!(真っ平ごめんよ!)」と言い続ける。
ソフィアは殴られたら殴り返す。女人禁制とされている酒場にも『あたしにゃ関係ない』とヅカヅカ入っていく、ぬるい紅茶は容赦なく沼に捨てる。
あの頼もしく、度胸も愛嬌も合わせ持つワイルド&キュートなソフィアこそがカラーパープルの希望だ。
中盤、ある事件をきっかけに、あれほどパワフルだった彼女が意気消沈し、スッカリ骨抜きにされてしまったかと思いきや、クライマックスのあの食卓シーン。
長年の鬱屈を爆発させたセリーのミスターに対する〈もうどうにも止まらない〉毒舌ディスの痛快パンチライン。
『死んだ馬の糞袋以下』という見事なLyricに、地鳴りのような笑いのビートで呼応し、遂に『むかしのソフィアが戻ったよ!』と高らかに宣言するあのシーンは、一度は悪に叩きのめされたが再び立ち上がったスーパーヒーローそのもの。これぞ究極のカタルシス!
あのシーンこそがこの映画のピークであり、度胸と愛嬌のシスターフッドブルースがもっとも唸った瞬間だった。
【ミスターは許されていいのか?問題】
牛一頭と卵で、初めからこき使うためにセリーを嫁にしたあの男は、父の性的虐待から自分を守るために姉を頼って逃げて来たネティに、あろこうことか手を出そうとする。しかもそれを拒まれたら逆ギレして、身寄りがないと知りながらネティを追い出す。
それだけではなく、セリーとネティを繋ぐ唯一の方法さえ遮断し、切実な姉妹の想いを踏みにじる。
こう書き連ねていても胸糞悪くなるほど、あの男は性根の腐り切ったクズだ。
とてもむかつくのだが、此奴の愚行の行動原理が家父長制×男尊女卑に侵された男のメンツ的なこだわりなのだとしたら、逆にこれほど哀れなことはない。
男であることの理由なき尊厳、それに縋ることでしか己を保てない自我の脆弱さは、人種にかかわらず、男というメンツの、まさに〈悲しい性=サガ〉だ。
勿論、それを〈人間臭い〉なんて綺麗事で括る気はないが、妻に去られ、途端に面白いように落ちぶれる様などは、家父長制ドンピシャおやじの典型。実際にそういう人を何人も知っている。
問題は、最後の最後に彼が行ったセリーとネティへの〈償い〉により、彼は許されても良いのか?ということ。
ここはネタバレに配慮すべき点と思うのでボヤかすが、悔しいけどあの〈償い〉については、彼なりの贖罪、そして去られたことで、漸くセリーへの愛情に気づいたのだと思わざるを得なかった。
そして〈あの店〉で売れ残ったハデハデパンツを買い取って、ちゃんとパーティに履いて来た茶目っ気には、許す許さないは置いといて、一定の評価を与えてやっても良かろう。
あと、バンジョー弾いてる時だけは人格や素行に関係なく素直にカッコ良いと思いました。
ミスターがずっとただバンジョー弾いて歌ってるだけだったらファンになったかもね。