「論理的」と「解像度」の過剰な礼賛

 今回も以上のツイートが切っ掛けとなり、ツイート言及をnote記事に拡大して投稿する。 

 近頃、Twitterで論理的や解像度なる言葉をよく目にする。それも、それらの性質が長けているとされる人程優れているとする風潮だ。僕はそれに対して違和感を感じずにはいられない。というのも、それらの使われ方が、あまりに多用されすぎた結果なのか陳腐化しているように思うからだ。
 本来の論理という言葉は学術的意味合いが強い。形式論理、非形式論理、演繹、帰納、推論など。それらも実は思考や議論のための筋道という手段でしかなく、また現代論理学の知見からは、我々が日常的に使う自然言語による論理性の限界が鋭く指摘されている。そして論理的思考には演繹にせよ帰納にせよ推論にせよ、各階層の思考を積み上げていく過程でそれぞれに根拠がなければならない。その根拠がなければ論理ではない。つまり「何故そう判断したのか」との問いに全て回答できるからこそ「どのようにしてそう判断したのか」との思考の筋道が明確になり理路が通ることで初めて論理となる。
 そういった事実や前提を踏まえれば、我々が普段Twitterなどでまことしやかに語る各々の命題や仮説に関しては(そもそも彼らの語る話があくまでも命題や仮説でしかないという自覚すらあるかは怪しいが)それに言及するまでに積み上げてきた思考の階層全てに大凡確からしい根拠がなければ論理的とは言えない。もちろん「一般的な男性とはX染色体が一つとY染色体が一つずつあり、男性器があり…」などと一つの単語について逐一厳密な定義を踏まえて語らなければならないとまでは言うつもりはない。当然我々のコミュニケーションの疎通性を簡便にするため、ある程度の共通知や共通理解は前提とせねばならない。
 それでも昨今のTwitterでしばしば目にする論争は、一方が前提となる根拠が不明なままの命題や仮説を主観的な決め付け(偏見、バイアス)として思考で積み上げ議論の相手に暗黙に共通知として使うよう強制的に要求したかと思えば、また一方はその疎通性を簡便にするための共通知に胡座をかき一般的な用語に独自の特異な意味付けをして表面上は理路が通っているように見えるが逐一厳密な定義を問われれば破綻が明らかになり総体的には理路の通らない言説を唱えていたりする。
 そしてそのような言説を、ただ言語化が上手いだけで「この人は解像度が高い」と評して褒め称えるのは、果たして如何なものか。そもそも解像度という概念も(恐らくは落合陽一氏が初出の表現のミームだが)、各々が言語化した表象にある程度の真実性や真理性を付与した方が良いと考えている。つまり言語化した物事は特段想像や幻想であっても良いが、解像度というからにはその像の先に現実や真実などの実体があった方が、言葉の意味や使い方として理解しやすい。解像度の高い人や言説は、それが大凡正確でなければ意味がないとすら。またそれを前提に置けば、「人としての解像度の高さは言語化した言説の解像度を高めるために論理的思考を積み上げる過程でどこかの思考にミスが起こり言説の妥当性を損なうリスクが高い」とか、「主語の大きな言説は解像度が低い」とか、「この人は言語化は上手いが解像度はそれほど高くない」との評価がしやすくなり、思考の分析性が高まる効用があると考えている。なので「言語化が上手い」と「解像度が高い」を同義として扱う今の風潮には違和感を抱く。
 結局のところ僕が言いたかったことは、「論理は皆が思う程万能な道具ではない」や「解像度が高く見える言説には本質を見誤っているリスクが高い」という前提を広く共有して欲しいということに尽きる。これを知っているか知らないかで、Twitterなどでの言論への理解や批評に大きな差が生まれることは明白であろう。