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カンボジア現代史③ クメールルージュの誕生

前回までのあらすじ

 前回はクメール人の築いた王国がどのように現代カンボジアに繋がっていくのかを書いた。
 クメール人は最初に東南アジアで覇権国家を築き、大陸部の大部分を支配下に置いたが、13世紀以降から17世紀にかけてタイやベトナムの侵攻により徐々に支配地を失っていく。飲み込まれる寸前のところをたまたまアジア進出の機会を窺っていたフランスの保護下に入ることにより、辛うじて国の存続を守った。しかし仏領インドシナという植民地国家の枠組みに取り込まれたことによりクメール人は主権を失ってしまう。特に役人としてフランスに雇われたベトナム人に対する憎しみは庶民レベルで広く蔓延していた。この外国による支配と外国人に対する不信感はクメールルージュの時代を語る上で重要なキーワードとなる。
 1953年、第二次世界大戦を経てもはや植民地を維持する力を失ってしまったフランスはカンボジア王国の独立を認めた。独立を指揮したシハヌーク国王は退位して政治家となり、政党を作って選挙で勝ち、独裁体制を築いた。クメールルージュ、ポル・ポトはシハヌークの強権政治の中で生まれる。

第2章 クメールルージュの誕生

2-1.クメール人民革命党

 カンボジアの共産主義運動は抗仏民族運動として始まった。その歴史は1930年ごろまで遡る。当時仏領インドシナではいくつかの共産党、共産主義勢力が存在したが、コミンテルンの指令により「インドシナ共産党」が結成される。クメールルージュの起源となる組織はこのインドシナ共産党のカンボジア支部で、当時はゴム農園で働くベトナム人労働者が中心となっていた。
 第一次インドシナ戦争が本格化する中で、ベトナムは単独での独立を目指すこととなったため、インドシナ共産党は解党し、ベトナム、ラオス、カンボジアそれぞれに後継政党ができた。インドシナ共産党のカンボジア支部はクメール人の加入者もいたが、党を動かしていたのはベトナム独立同盟(ベトミン)の影響を受けたクメール・ベトミンと呼ばれるグループだった。インドシナ共産党のカンボジア支部はクメール人民革命党を名乗った。党を指導していたベトナム人のグループがカンボジアはまだマルクス・レーニン主義や共産党を名乗る段階に達していないと判断したのだった。蛇足であるが、現在ラオスを支配している政党も「ラオス人民革命党」である。
 1930年代から1940年代にかけて、共産主義者を中心に抗仏独立運動は全国へ広がっていく。武装闘争に出た勢力も多かったが、クメール人民革命党はあくまで政治闘争でのカンボジアの解放を目指しており、当初は国民の絶大な支持を得ていたシハヌーク国王との協力も視野に入れていた。ベトナム人指導者たちによって目指すものは共産主義革命ではなく人民革命であるとされていたのもあったが、クメール人民革命党は元々は穏健な共産主義政党であった。

抗仏組織クメール・イサラク

2-2.ポル・ポトの野望

 クメール人民革命党の穏健路線に不満を抱いている人々もいた。その中心人物がポル・ポトである。彼の本名はサロット・サルで、王室とのゆかりもある裕福な農民の生まれであった。このころはまだポル・ポトを名乗っていないが、本稿では呼び方をポル・ポトで統一する。

ポル・ポトが幼少期を過ごした村

 ポル・ポトはフランス留学中に共産主義思想、クメール民族主義思想に触れた。フランス共産党のクメール人有志の集会に参加して、思想だけでなくソ連や中国の共産党による支配方法など実務面も学んだと言われる。
ポル・ポトはのちにとある米国人ジャーナリストのインタビューで、自分はフランス留学時代は普通の学生であり、政治的に目覚めたのは帰国してからだと語っている。「土地や水牛を持っていい暮らしをしていた親類が、全部を失っていた。そんな国の現実からもっとも影響を受けた」これはポル・ポトが死ぬ半年前の言葉だ。自分は無口で控えめな人間であり、指導者だと人に吹聴なんてしたくないのだと語っていた。この自己評価もある程度本当なのだろうが、実際にはフランス留学中に革命を肯定する論文をたびたび寄稿し、討論会グループの仲間には将来革命組織を指揮してその書記長になるとも語っており、フランス留学中からなんらかの野望を抱いていたのは確かであろう。
 1953年にポル・ポトはカンボジアに帰国した。歴史教師として働きつつ、旧インドシナ共産党の幹部と接触し、クメール人民革命党に入党し、本格的独立闘争に身を投じるようになる。彼の入党を許可したベトナム人幹部はのちにポル・ポトの能力自体は平均的であったが、権力欲は際立っていたと語っている。ポル・ポトは後に歴史教師を辞めて、ベトナム国境で反フランス闘争の後方支援部隊として働き、多くの経験を積んだ。当時のポル・ポトを知るものによると、彼は自分をフランス共産党から来たものだと紹介しており、クメール人が革命を実行しているのか探っているようだったと語っている。当時のクメール人民革命党は実質ベトナム人幹部による指導のもとにあり、このころの経験を通してクメール人が自分自身で革命と独立を達成しなければならないという想いを強めたと思われる。
 1954年、ジュネーブ休戦協定が結ばれたことによりカンボジアからもフランス軍とベトミンの引き上げが始まる。クメール人民革命党の幹部はベトミンのメンバーでもあり、ベトナム民主共和国建設のためにハノイに帰っていった。カンボジア人の左翼活動家も多くがハノイに脱出する中で、ポル・ポトは密かにプノンペンにもどった。多くのクメール人民革命党幹部がプノンペンを離れてしまったこと、また党内が混乱状態にあったことなどからポル・ポトは要職に就くことに成功した。党活動に専念して基盤を固めていった。
 1960年、プノンペン鉄道駅で密かに開かれた党大会でポル・ポトは党内ナンバー3の地位を獲得する。当時はベトナムの影響でカンボジア労働党を名乗っていたが、のちの党の歴史ではこの会議がカンボジア共産党の第一回党大会ということになっている。のちにポルポトは党内の親ベトナム派幹部を暗殺し、1963年の党大会で書記長の座に就任した。ポルポトは党の幹部をかつてのフランス留学仲間で固め、かつてのインドシナ共産党時代の有力者たちは力を失っていく。こうしてポル・ポトはクメール人民革命党を乗っ取り、新しい指導者たちはシハヌーク政権との対決を求めていくようになった。


2−3.森の中へ 「クメールルージュ」の誕生

 1955年、シハヌーク国王は退位して人民社会主義共同体(サンクム)を結成する。シハヌークはサンクム以外の政党を徹底的に弾圧、同年9月の選挙で国会の議席を独占して事実上の独裁体制を完成した。シハヌークのこの政策はカンボジアで複数政党制議会制民主主義が定着する芽を摘み取ってしまった。もし複数政党制が定着していたらクメール人民革命党は議席を獲得し、ポル・ポトを中心とした党内の過激派も選挙での戦いを余儀なくされていたはずだった。
 クメールルージュとは本来はシハヌークが国家元首時代に国内の反体制共産主義勢力をまとめてそのように呼んでいたことに由来する言葉で特定の組織ではなかった。クメールルージュがポル・ポト派を指すようになったのはポル・ポト政権崩壊後のカンボジア内戦の時代である。本稿では「ポル・ポト派」という意味でクメールルージュという言葉を使っていく。
 1963年、シェムリアップでの警官の暴行に対する高校生の抗議デモが発生し全国に広がる。シハヌークは「破壊活動分子34人」のリストを公表して弾圧に乗り出した。そこにはポル・ポトも含まれていたが、クメール人民革命党を秘密裏に乗っ取っていたことは知られておらず、あくまで暴動を煽る左翼教員のひとりとして挙げられていた。誰も彼がクメール人民革命党のリーダーとは把握していなかったのだ。シハヌークはリストのメンバーを一斉逮捕する気はなかったが、ポル・ポトを中心とした党指導部は地下に潜る時が来たと判断し、東部コンポンチャム州の森に潜伏した。
 ポル・ポトのグループは森の中へ逃れた。1965年、ポル・ポトや党幹部は北ベトナムや中国を訪問し支援を求めた。しかし北ベトナムはアメリカとの戦争に勝利するまでカンボジア国内での武力闘争を待つように圧力をかけた。当時シハヌークは米国と断交し、北ベトナム、中国と協調路線をとっていた。特に北ベトナムに対しては共産軍のカンボジア国内駐留を認めており、北ベトナム側としてもカンボジア国内で内戦が始まるのは好ましくなかったのだ。中国もこの時点ではカンボジアと友好関係にあり、反政府勢力に対する支援は見送った。しかしポル・ポト一向を同志として迎えたことは確かなようで、のちに文化大革命を推進するメンバーとの交流を持った。クメールルージュ政権が実施することになる極端な原始共産主義的な政策はこの頃中国の影響を受けて育っていったと思われる。
 1966年、ポル・ポトは党の名前を「カンプチア共産党」に変更する。当時北ベトナムは労働党であったので、共産党を名乗ることでベトナムを追い越し、中国に並んだという自己満足という側面が大きいが、このベトナムへの対抗意識がクメールルージュの政策に大きな影響を与えることになる。またこの頃、クメールルージュは闘争の本拠地を国内北東の辺境に移す。山岳少数民族の居住地域に移り住んだことにより、原始共産制の素晴らしさ、資本主義による腐敗の影響を受けていないことの素晴らしさを認識した。中国で学んだことも併せて、クメールルージュ政権奪取後の理想の国家像が形成されていった。クメールルージュはまだ弱小勢力であったが1965年、66年は思想的な転換点となった。

2−4.クーデター そしてパンドラの箱は開けられた

 一方で親東側外交を展開していたシハヌークも厳しい立場に立たされていた。北ベトナムの軍はカンボジア領内に大量に恒常的に展開するようになっていた。北ベトナム軍は食糧を必要としており、カンボジアで生産される米の30〜40%がベトナムに密売されていたという。税収の減少に悩む政府は兵士を動員して米を安く買い付けようとするが、そのことが原因で1967年に農民による大規模な反乱が起こる。
 クメールルージュはこの反乱に関与していなかったが、シハヌークは北ベトナムの支援を受けた共産主義勢力が暴動を煽っていると主張し、左翼勢力に対する弾圧を強化した。この時サンクム体制内で合法的に活動していた共産主義者たちもジャングルに逃れて一部はクメールルージュに加わった。ポル・ポトはこの反乱を機に本格的に政権転覆を目指すことを決定し、1968年に全国で一斉蜂起を実施した。しかしクメールルージュの武力は十分とは言えず、政府に決定的な打撃を与えることはできなかった。
 シハヌークは左派に対する不信感から1969年に米国との国交を回復し、カンボジア領内の北ベトナム軍基地に対する爆撃を黙認した。また一方で共産主義勢力との関係も続けていた。首尾一貫しない政策に国内の左派、右派陣営は反シハヌーク感情を募らせていく。
 1970年、カンボジアの首相であったロン・ノルはクーデターを実行した。共謀者は副首相、カンボジアのもう一つの王家であるシソワット家の人間がいたが、彼らは米国の支援を受けていた。つまりシハヌークの煮え切らない態度に業を煮やした米国の情報当局は、シハヌークに不満を持つ勢力に肩入れして親米政権を樹立し、ベトナム戦争を有利に運ぼうとしたのだった。冷戦時代米国が世界各地でやってきたことではあるがこれが世界最悪の大虐殺に繋がるとは当時誰も予想していなかった。クーデター発生時、ソ連を訪問していたシハヌークは友好国であった中国に亡命しロン・ノル政権打倒を呼びかけた。

クーデター後のロン・ノル政権下カンボジア

まとめ

 今回はクメールルージュの母体となったクメール人民革命党がいかにして生まれ、ポル・ポトの党となったのか、ポル・ポトは党の実権を握ったあとどのように反政府活動を展開していったのかをまとめた。次回は政権を追われたシハヌークがポル・ポトの勢力と手を組んで反ロン・ノル闘争を展開して、新しい国家を築いていくところまでを解説する。ややこしいことにかつて共産主義者を弾圧した国王と弾圧を受けたポル・ポトが手を組むのだ。これが激動のカンボジア現代史を複雑にしている要素の一つである。複雑だが、これまでカンボジアが歩んできた歴史の流れの中にあり、前史で得た知識を思い出しながら一つ一つ読み解いていきたい。

 前回は張り切って画像をたくさん用意しましたが今回はあまり用意できませんでした。次回以降用意できたら頑張ります。

参考文献

・『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』
・『ポル・ポトの悪夢: 大量虐殺はなぜ起きたのか』

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