選挙の日に熱くなってnote書く人
今日は東京都知事選挙の投票日。僕も昼過ぎに地元の中学校へ投票に行ってきた。
事前の情勢調査の結果などを見ると残念ながら緑のあの方がまた当選してしまうのだろうが、あの人、4年前の公約を何か一つでも実現したのだろうか。もちろん、何一つ果たしてない。それでも、都民はまた呑気に当選させるのだろうか。
いつも、政治がらみのことを書くとフォロワーが減る。いいねもスキもつかない。つまり僕のことをフォローしてくれている人は、僕にはそういう文章は期待していないということなのだろうけれど、それとこれとは関係なく、書かなきゃいけないものは書かなきゃいけない。僕はサッカーだけで生きてるわけじゃない。サッカーなんてあくまでも人生の一部、オマケのようなものだ。
民主主義は、当選した人に白紙委任するものではない。
多数決で選ばれたのだから任せて批判は慎むべき、なんて言説を振りまくとんでもない人をたまに見かけるけれど、それは間違い。中学生からやり直したほうがいい。
民主主義の主権は国民。
選挙で選ばれた人が何をやるか、国民はそれをしっかりと監視しなければいけない。政治家なんてちっとも偉くない。繰り返すが、主権は国民だ。政治家は、国民のために働く義務がある。
だから、政治家を「先生」なんて呼ぶ必要もない。
政治家が何か不正なことをしたり間違ったことをしたら僕たちはしっかり批判しなければいけないし、批判することも、実際にデモを起こすことだって、当然認められている権利だ。
権力、体制、現状、そして決まったことについて批判したり、抗議したり、立ち上がったりする人に対して、日本人はなぜか冷たい。「まぁまぁ」なんて冷笑し、嘲笑し、時には激しく罵倒する。お前ら、口を慎めよと。
こんな時に批判はやめよう、とかね。こんな時に働いてくれないからこそ、批判してるんじゃないか。あんたら糸井重里か。
糸井重里のようなおじいちゃんにだけはならないようにと、僕は心に決めている。
僕はサッカーコーチでもあるけれど、サッカーのことにしか興味がない、サッカーのことしか知らないサッカーコーチも、周りにはとても多い。
子どもに携わる仕事をしているのに、それでいいと本当に思っているのだろうか。そんな人は子どもに携わるべきではないとすら思う。政治は暮らしと密接に関わっているし、子ども達の未来にも、直接関係してくる身近なことだ。
弱者の権利についても、異様に冷たい人が多い。差別、貧困、ジェンダー問題⋯これらにまるで関心を示さない人は本当に多いし、時にはなぜか、これらの問題について運動している人に対してあからさまな敵意さえ向けてくる。
あれは一体なんなのだろうか。
人種、肌の色、境遇、出自、性別によって差別されるようなことがあっては絶対ならないし、そこには議論の余地さえないでしょう。
あらゆる人が少しでも暮らしやすい社会になれば、みんなが幸せじゃないか。そうじゃないの?
俺が満足してる社会に手を出すな、俺の知らない領域で騒ぐな、俺よりも自由に暮らすな
そんなマインドで凝り固まっている人が、どうやらたくさんいるようだ。
誰かを見下してマウントを取って、強い側に加勢することでしか自尊心を保てない。そんな愚かな人が、Twitterが一気に広まった東日本大震災以降、明らかに増えている気がする。
一気に増えたのか、それともSNSで可視化されるようになっただけなのかはわからないけれど。
僕は、そんなやつらが大嫌いだ。
少なくとも、反知性、反誠実の象徴のようなあの人物が8年も総理を続けていられる(しかも2回目)わけだから、いろんな意味で、日本人は大切な何かを明らかに失い続けてるのだと思う。劣化し続けている。
こんな社会は、絶対に何かが間違っている。だから変えないといけない。
面倒くさいやつだと言われようが、誰にどう思われようが自分が持つこのマインドは一生消えないし、そう言われれば言われるほど、より一層この火は強くなる。
「世界を変えたければ、まずは自分がその変化になりなさい」
(マハトマ・ガンジー)
僕には何ができるのか、何からしていこうと思っているのか。
今度、このnoteに書いてみたいと思います。
東京に住んでいるサッカーコーチの方々、今日、練習や試合の前や後、投票行きましたか?もしく期日前投票でも。
そういえば
僕が昔からお世話になっている東京の某強豪クラブの監督は、数年前の衆議院選挙の日、練習を抜け出して自転車で投票に行っていたなぁ。「全員に×をつけてきた!」って言ってたけど。