人生楽になったなあと感じたランキング
アドラーの「嫌われる勇気」を読んで効果を実感したランキングです。
ランキング形式を取ってはいますがどれも重要でどれも
等価値な事だと思ってご覧ください。
一位 競争から降りて、普通を諦めた事
人生は他人との競争ではないとアドラーは言います。
僕がアドラー心理学を実践して一番楽になったのは、
競争から降りて、他人の同調圧力やマウント合戦から距離を置いた
ことです。
競争から降りると、隣人が敵から味方に変わります。
これが人間関係において劇的に効果がありました。
マウントとってくる人はそもそも自分にとって大事な人ではないので
距離を置く、僕を大事にしてくれる人は僕も大事にする。
自然と健全な関係を築ける人だけが残って、ストレスが無い。
そもそも「普通」なんてものは存在しません。
誰だって何かしら抱えていて、「普通」じゃありません。
「普通」とかいう薄っぺらな概念で人生をとらえるのは
自分を苦しめるだけですね。
「普通」という概念は「こうあるべき」という自分に首輪をはめる
べき思考に繋がります。
これは第2位に繋がる話なのでそちらで記載します。
二位 怒りは権力闘争の道具なので捨てる
怒りの表出は相手を屈服させるための道具にすぎません。
怒りを表す=権力闘争をしている=競争をしているとなり、
怒りを捨てない限り、競争から降りることはできません。
あと、経験上怒るのは疲れる上、物事が良くなった試しがありません。
怒りの感情そのものは何故起きるのか?
それは他人に対して抱いている自分の「こうあるべき」という期待が
裏切られたからです。
正義感のようにも思える感情ですが実際は単なる価値観の押し付けです。
世の中に絶対に正しい事なんてありません。
駄目だと言われている人殺しだって時には正義になります。
そう、あなたの家族を守る時です。
何が正しいかなんて状況次第でいくらでも変わります。
怒りを確信の要素にするのは危険なのです。
まず怒りに疑念を持ちましょう。
正しくない可能性があります。
怒りを抱いた時点で内心で既に他人に対して自分の価値観の押し付けを
しているわけで、怒鳴るなどの怒りの表出はその実行、要は相手を屈服させ、操作するための道具なんです。
そしてその欲求は親に対する「自分を保護しろ」という
子供の欲求と同じです。泣いたり駄々をこねてるのと同じです。
怒りの感情に頼っている人は、想像力が欠如しているため、
相手の心に寄り添った理性的な解決方法を知らず、幼稚な手段である
怒りを使わざるを得ないのです。
また怒りを感じる人は完璧主義である傾向が強く、
それが自分自身を苦しめます。
完璧でなければ愛される価値が無い。
そういう価値観を他人にも投影して強要する。
結局は自分しか見えていないのです。
そういう視野の狭さも、自分の生きにくさに繋がります。
怒りを理解し、完璧主義を手放しましょう。
怒りはエネルギーの無駄です。
もっと別の事にエネルギーを使ったほうが人生楽しいですよ。
三位 ダンスをするように生きる
今この瞬間をダンスをするように生きる。
今この瞬間を楽しむように生きて、少しでも自分の人生を楽しめたら
布団に入る時に自分を褒めてあげたくなる。
次の日もダンスを踊ればいい。
毎日幸せが味わえる。
今この瞬間を楽しみ、誇りにすることはすごくシンプルな事ですが、
とても重要です。人生はその刹那の幸福な記憶と
自分に胸を張れることができたという実績の積み重ねです。
四位 自分が不幸なのは、自分が不幸を必要としているからであり、不幸への執着を捨てて本当の幸せを見つける事
自分が不幸であるという実感を好きな人は誰もいないと思いますが、
何故我々は不幸だと思ってしまうのでしょうか?
それは不幸であるという実感が自分自身への免罪符となるからです。
わかりやすく言うと、できない事を正当化するための言い訳です。
「私はこんなトラウマを抱えているから変われない、できないのだ。
仕方が無いのだ。幸せになる勇気が出ないのは私のせいではないし、
今私が不幸なのは、私のせいではない。」
アドラーは原因論を否定し、目的論を唱えています。
トラウマがあるからではなく、目的のためにトラウマを利用している
という考え方です。
その目的とは「これ以上傷付きたくない」という感情です。
毒親の元に育ったからこうなったのだというのは、その時点の傾向性を
決める要素としては正しいです。
しかし、今現在その傾向性に抗えない理由にはなりませんし、
毒親の元に育っても全員が不健全な精神になって不幸になっている
わけではありません。
自分が変われないのは、自分が変わる事、全力を出してもダメだった時
傷つくのが怖くて、無能の烙印が確定してしまう事を恐れて、
幸せになる勇気が持てない事です。
人は「本当は自分はやればできるんだ」という状態を維持したがります。
アドラーはそれを可能性への逃避、「人生の嘘」と呼びました。
僕はこの理論を読んで人生の価値観がひっくり返りました。
自分もそうであった。人生の嘘に逃げ込んでいたと思います。
これは一種の引きこもり精神であり、他責思考的なものだと思います。
他責思考は自分の人生に向き合っている状態ではありません。
自分の人生に向き合うという事は、自分の意志で自分の人生を決めて、
自分の責任において人生を歩むという事です。
それが不幸な結果になったとしても言い訳はできません。
ですが、失敗したことで何か本質的に自分の価値が落ちたことなど
あるでしょうか?
失敗したら、次失敗しないための教訓にすれば良いだけの事です。
それは自己成長へ繋がる事であり、失敗を恐れる必要はありません。
失敗は間違いなく自分にとってプラスになる好ましい出来事なのです。
失敗をネガティブにとらえているからマイナスに見えるだけです。
「失敗上等」
そう考えるようになってから、僕は明らかに人生が前向きになりましたし、
今現在の自分がベストであり、更なるベターが望める状態だと
思っています。
失敗した事実そのものは人の存在価値に何の影響も与えないのです。
それをどうとらえて前向きなエネルギーに変換できるかが
問われているのです。
それが人間性というものであり、現在のありのままの自分を認め、
更なる高みを目指すことが幸福感へのカギになると思います。
他人の嘲笑など関係ありませんし、嘲笑をする人は既に精神的に弱く
完璧ではないのでそういう人の言葉は聞く価値はありません。
強く美しい人は他人を嘲る必要が無いのです。
他人を嘲る人はあなたにとって重要な人物ではありません。
切り捨てましょう。
弱い人物は反面教師程度の参考にしかなりません。
尊敬できる人物とだけ積極的に関わり合いましょう。
ただ、他人に対して全般的に幻滅して興味を失うのは
自分の世界を狭めます。
僕自身がそういう傾向があるので気を付けています。
主語を大きくして固定観念で解ったつもりになるのも絶望するのも
危険です。
思考はある程度の揺らぎ、柔軟性を持たせて置くのが肝要です。
僕はそれを「8割の信念と、2割の疑念」と呼んで
そういうスタンスを心がけています。
パレートの法則の応用ですが、感覚としてこの心理バランスが
良いと感じています。
2割の疑念が思考の柔軟さと自分を向上させる余裕になります。
0か100かみたいな自分が絶対正しいとかの白黒思考は良くないです。
これは対人関係にも言えます。
他人は自分で思うほど敵ではありません。
関わり合う価値のある人間も2割程度だと思いますが、
自分を悪く思ったり、敵だと思う人も多くて2割程度です。
残りの6割はどちらでもないグレーです。
つまりはわからんし、自分次第という所です。
また、執着しないでも問題ない部分です。
対人関係や物事の8割はどうでもいいという事です。
いい意味で感情を動かす価値がありません。
ただ穏やかにありのままを受け入れれば良いだけです。
これは明鏡止水の境地に繋がります。
少し話が脱線しました。
自分を守る為に不幸である必要はありません。
思いっきり失敗して、成長の糧にして、成長した自分を褒めて
あげましょう。
失敗はあなたの価値を上げるためのものであり、
失敗してもあなたの存在価値は下がりません。
だから不幸を手放して、幸せになる勇気を持ちましょう。
人生の嘘から抜け出しましょう。
今の自分に胸を張れることが何よりも重要です。
長くなってきたので5位以下は次回へ持ち越します。
ランキングというかほぼ箇条書きへの番号付けみたいな
感じになってますね。
それもまた良し
細かい事は気にしない。
それでは、