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また、記事の推敲について考える

半月程前に一度は落ち着いたものの、また考える。

というのも、やはり推敲は面倒くさい。この一点につきる。

日付変更が迫ってくる度に「あー、まだ書いてないし、見直しの時間も作らないと…」と、これが毎日頭をよぎる。

「まあ、短い文章ならそのまま投稿してもいいや」というマインドでしたが、やはり読み直して見ると変な所は必ず見つかる。

不思議なものですね〜。これほど自分に信用がないとは。

さっきお風呂に入りながら、同じように「どうしよっかな〜」と思っていたんですが、良いことを思いつきました。

全ての文章を推敲する必要はあるのか?

ということです。すごく凡庸な問いですが、抜けていました。

解釈問題かもしれませんが、このnoteは日記でもあります。ふと冷静に考えて、日記に推敲をする人はいるのか?と。

世の中に出すという意味で、売られている日記もこの雑記も変わりありません。売り物は読みやすさの観点から校正が入っているかもしれません。しかし、あくまでもこれは売り物ではありません(誰かに読んでほしいのなら推敲はした方がいいとは思う)。

私の考えとしては、書いている媒体がネット上にあって、誰かに読まれる可能性があるから推敲するというのもあると思います。単にプライドの問題だと思ってます。誰だって「この人の文章って変」とか思われたくないでしょう。

しかし、手帳やノートに日記を書いている人は推敲などするのでしょうか?

私にはそんなことをする人は少数に思えます。

日記を正確な記録媒体として使うのなら、推敲は必要かもしれません。それこそ「私はこの日にこれをしていたんだ!」と、証拠書類を作るように。

このnoteには読書感想として「何を読んで何を思ったのか?」を忘れにくくするために書いています。この場合は本の内容を間違えないで記録しておきたいものです。ですが、書いたものには必ず間違いはあると認識しているものの、書いたことが私にとってはその本で得た知識として結びついているのもまた事実です。

こうなると、どれを推敲し、どれを推敲しないのかを線引する必要があると思ってます。ジャンルで分けるのが楽ですが、[推敲する]にカテゴライズされてしまったものは、書くためにものすごく気力のいる記事になってしまうことは簡単に想像できます。

改めて、推敲する意味について考えてみます。

私が推敲する意味は、自分にとって読みやすい文章であって欲しいという所にあります。というのもある程度は読み直す前提にあるからです。振り返ってみて、読みづらければ自分が書いた文章に「ん?どういうことだ?」と思うでしょう。

日記に推敲する人はいるのか?と書きましたが、ある程度は上に書いたように証拠書類的な側面も求めています。そこまでガチガチではありませんが、当時は何をしていてどう思っていたのか?は分かるようになっていて欲しいものです。

という考えがあるから、推敲したいと思ってます。強いて言えばその文章が他人にとっても読みやすければ…とも。
(これまでは自分の文章が読みづらいと書いてきたと思ってますが、読みづらいの先にあるのは当時の考えを理解しにくいに繋がることが分かりました)

私の推敲に対する姿勢を今一度確認した所で、「どうするのか?」ですが、極力推敲をするに尽きると思います。

日記にしろ、読書感想にしろ、ある程度は信頼性(自分目線で)のある記録媒体として書くことが目標と分かったので、出来るならやる。これに尽きると思います。

とはまあ、「日記だからありのままを残すんだぁ!」と、推敲を否定する心の余裕(言い訳)みたいなものはできました。

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