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追・『普通という異常』を読んで。
前回も気になる所を書きましたが、書き残した所があるので、追加して書きます。
お礼を言う苦痛
障害で荷物を持ったまま階段を登れなくなった人のエピソードがありました。
この人は階段を上がる度に同級生に荷物を持って貰う必要があって、毎回お礼を言うのが耐え難く、屈辱的だったそうです。
著者はこの苦痛の理由を2つ挙げていました。
・同級生が健常者なことを見せびらかしている
・同級生に対して申し訳ない気持ちが強い
後者に対しては荷物を持つのがヘルパーであれば、金銭的に借りを返しているので屈辱的にはならないはずと追記しています。
この人と似たエピソードを違う本でも読んだ記憶があります。同じように仕方のないことで助けて貰うのがどこか屈辱的、申し訳ないといったものだったと思います。この本では、どこかの国を例にして当たり前のことをした(助けた)のにお礼を言われる方が屈辱的で逆に怒ると書いてあった気がします。逆に怒られるなんてこともあるんだという点で記憶に残ってました。国民性的なことがこういうところにも表れているのかな?って思いました。
抑圧と元抑圧
志望校に合格すれば、希望の人生が!
ということを心がけて勉強したりします。私もそうでした。私は叶わなかった側の人間ですが、「きっと何かあるはず」と進んでみても、日常の延長線上でしか無かった。ということについてです。
私にとっての大学生活はどこの大学に行っても、同じとは言いませんが、似たようなことを感じたのは間違いないのでは?と思います。
ここで、健常者は「自分の人生が変わるのはここではなかったんだ。違う目標を!」と努力するそうです。これを抑圧というそうです。
そうではなく、目標を達成したとしても何も変わらないという考えが元抑圧というそうです。
どちらも不安感があります。前者は目標を達成せねば…という不安感があり、後者は目標を達成しても何も変わらないのでは?という不安感です。
私も資格なりを取得しましたが、何も変わらないと感じるので、不安感が抑圧から元抑圧に変化したんだなって理解しました。
どちらも不安なことに変わりませんが、自分をメタ的に見れたのは良いのでは?と思っています。
学生であれば、テストでいい点を取れば親から誉められるとか、周りからチヤホヤされるみたいな「変わった」ような達成感があるのではないかと思います。しかし、社会に出てしまえば、どちらかと言えば、「当たり前」で終わってしまって、特段何かをしても「変わらない」ので、元抑圧的な不安の方が強くなるのでは?と勝手に思ってます。
追記.
この記事自体は昨日書きましたが、今日こんな動画を見てちょっと+αで書きたくなりました。
この動画の13分くらいから始まる「人々が必要としていたのは"達成感"」というお話が、抑圧と元抑圧の所に関係するのでは?と思いました。
動画の話としては達成感を求めているけれども、やったところで意味がないというのは分かっていての達成感を求めるだと私は解釈しました。つまり、抑圧と元抑圧の両方を分かった上でそれでもやりがいを求めている。
私が本文で書いたのは、元抑圧の方が強くなると結論付けましたが、そんなことは当の昔に分かっていてそれでも何か目標を持ってやり続けるんだということかなと。
どちらかと言うと、元抑圧が強くなるのは、社会に出て数年してからの出来事なのかと(ある種の燃え尽き症候群?)。これを乗り越えて社会に適応していくかどうか選択肢が別れるのが世の中の流れなのかな?って考えを少し改めたました。
何かをすることが周りから認められるためから、自分のためにどんどん変わっていくのかな~とも思いました。